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初期の日本の扶助協会

柳田 聡子

1948年に伝道が再開されました。この時は宣教師は長老5人だけでした。伝道部長はクリソード伝道部長でした。1949年マース伝道部長の時、初めて姉妹宣教師が来日して、来られました。その時は名古屋の会員は柳田夫婦と若い足立姉妹だけでした。名古屋には1950年の1月第一日曜日に支部が開設されていました。

姉妹宣教師が赴任されてから火曜日の夜、女性ばかりの集会が開かれましたが、支部長のハーレン長老は「組織が出来ていないから婦人会と言いましょう」と言って、その集会をアンドラデ姉妹に任せました。

この会にはテキストは無くて、部屋の整頓の仕方、食器棚の整理、福音に関する質問、応答、その他お料理(安くて美味しいビフテキ、クッキー、ホットケーキ、の料理、テーブルマナー等)、場所はほとんど姉妹宣教師の下宿の部屋でした。教会堂はない時代でした。オーブンが必要の時は柳田家の卓上コンロの上にのせる上乗せ天火を持ち込んでやりました。まだまだ敗戦日本の食料も貧しい頃でしたから、楽しい経験をして、家庭でお菓子を作る事など、家庭では子供達にとって楽しい習慣がつけられました。

出席者は年齢に関係なく、高校生や主婦が5〜6人は集まりました。狭い場所、不便な道具などでも家族的な雰囲気で、愛を育てるにはよい環境だったと思います。

その後1951年春、愛知県地方部大会(名古屋支部と鳴海支部)で扶助協会が正式に組織されました。東京でも女性の会を持っていたけれど、正式に組織したのはもう少し後になりました。フィロメナ・アンドラディ姉妹とハーレン支部長のお蔭であると思います。そして続けてペギー・マース姉妹の助けを頂いたお恵みのためです。 

ある時、雨の夜でした。天火を持って市電で6つ目ほどの宣教師の下宿にいったのですが、会員になっていた人も誰も来なくて宣教師と私だけで、悲しい思いをしました。後に私は責任を頂いた時、集会には欠かさず出席することが会員の務めであると姉妹達に強調したことがあります。これはいつの時代でも言えることだと思います。

宣教師の長老たちは伝道の任期は3年間でした。それで宣教師の服はボロボロになってよくズボンの継ぎ当てや、お布団の縫い直し、洗い張り、綿の打ち直し、仕立ては扶助協会の仕事になりました。扶助協会には仕事会という会がありました。これは活動の日で、上記の仕事もやりますが、家事一切の技術を学ぶのです。

当時の扶助協会のスケジュールを現在と比べてみましょう。

1950年代

第1週   神学      福音(聖典)  

第2週   社会科学    歴代大管長会など

第3週   仕事会     後のホームメーキング(現在また変わりました)

第4週   教養      文学的な勉強

以上のようなスケジュールはアメリカのワードと同じスケジュールでした。しかし、レッスンの翻訳が間に合わなくて、日本で作って進めるように伝道部長夫人から言われて、会長会(その時は、柳田会長と第一顧問の八木沼姉妹の二人だけ)は相談して一冊のテキスト(一年分)を作りました。全部中央管理会の承認を受けるために英訳して送らなければならず、特別に管理委員の高橋素子姉妹の骨折りをお願いして送りました。承認を早く受けるために数年前のよかったテキストを神学と社会科学には使って仕事会と教養を日本独特のものにしました。家庭訪問メッセージも以前のものを使いました。 

このテキストは更にそれから数年たってからまた一年間使いました。日本の教会管理本部も翻訳が間に合わなかったのです。アメリカの扶助協会では独自で雑誌を毎月出していて、詩歌コンテストを毎年行って誌上に発表していました。それに倣って日本でも詩歌を集めて少誌を作ったこともあり、各地方部でも行った所もあります。(現存している物を持参、参照のこと)

1962年アンドラス伝道部長により西中央地方部RS会長に柳田姉妹が召されました。東中央地方部も北海道地方部も沖縄地方部も次々召されましたが、これが日本全部の地方部でした。各地方部の所属支部は初めは次のように少なかったのです。

西中央地方部:名古屋、金沢、小松、京都、岡町、阿倍野、三宮、岡山、広島、柳井、福岡、(以上11支部), 会長―柳田

東中央地方部:東京東、東京西、東京南、東京北、東京中央、仙台、山形、群馬、新潟、群馬、甲府、松本、(以上12支部)、会長―山田

北海道地方部:札幌、小樽、旭川、室蘭、(以上4支部)、 会長―松下

沖縄地方部・・・・那覇、普天間、(以上2支部)、 会長―宮良            

1964年アンダーセン伝道部長により柳田姉妹は北部極東伝道部扶助協会の会長に召されました。上記のテキスト作成のことは伝道部会長に召されてからのことです。 

伝道部がその後、小松伝道部長となり、その後ビルス伝道部長と岡崎伝道部長に変わって、日本伝道部と日本沖縄伝道部に分かれて、二つの伝道部となり、柳田は日本沖縄伝道部の扶助協会長として、岡崎姉妹のご指導を受けるようになりました。ビルス伝道部長の伝道部ではMIAの責任を持っていた佐藤栄子姉妹が会長として召されました。(現在ご夫婦とも教会をお休みしているとのこと)予算については、扶助協会は独立していて、特別な方法をとっていました。

18歳以上の女性会員は自動的に扶助協会の会員になり、一年間の会費は一人30円でそのうち20円は伝道部の、5円は地方部の、5円が支部の扶助協会の予算となりました。地方部や支部はバザーやお弁当などで資金を集められるけれど、伝道部は資金を作ることが出来ないので、この一人20円がすべての活動費となりました。神権者は予算の中からいただけるので、北海道や沖縄の大会に訪問するのも飛行機が使えましたが、扶助協会には資金がその会費だけなので、夜行列車や連絡船を使って訪問しました。沖縄などは大会出席に往復1週間くらいかかりました。

最近の教会の発展は素晴らしいです。バザーや食事会やコンサートの切符を売らなくて、予算のための活動はしなくなりました。大きな大きな変化です。神殿も沢山できてきました。どんな状況にあっても、主に従い、指導者に従い、熱心に働くならば、神様は祝福を与えてくださることを、自分で体験して、よくわかります。全能の神様は私達を見ていらっしゃることをいつも感じて感謝しています。救い主のみ名により証します。アーメン。