メリディアン

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トンガよりのストーリ

ジョン・H・グローバーグ

 

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嵐の目(Eye of the Storm)

1章

船を捨てろ!

遠くの島々での10日間の伝道を終え,わたしたち3人は,パンガイ島への帰路に就いていた。伝道旅行は大成功だった。人々は耳を傾け,バプテスマを受けた人が一人,さらに2人か3人がバプテスマを受けたいと言った。わたしたちは証を述べ,真理を教え,最高の気分を味わっていた。

島へ行くときには,いつも伝道部の帆船を使うのだが,今回はモーター船で行った。モーター船は,帆船ほどスピードは出ないが,速度が安定しているので,予定通りに移動できると思ったのだ。船長と機関士の二役をこなしてくれた男は,用心深く,知識も豊富だった。船旅は順調だった。

今回の伝道旅行はすばらしいものだったが,いざ帰路に就くと,伝道拠点のパンガイが懐かしくなる。パンガイまでは,あと6時間,遅くても8時間あれば到着する。

風は強く,海は今にも荒れそうだが,それほど心配はしていない。今,通過した小島を最後に,パンガイ島までは,この先,海しかない。

前方に黒雲が現れ,船長が不安気だったので,声をかけた。「わたしたちは,主の使いです。だから,心配ないですよ。今回も大勢の人がわたしたちの証を聞いて,信じました。今,その旅から戻るところなのですから,主が守ってくださるに決まっています。」船長はまだ不安気で,こう言い返した。「嵐がこっちに向かって来ます。さっきの島に引き返しましょう。」わたしは「心配ありませんよ」と念を押したが,少し不安になった。船は前進を続けた。

風も波も強まる一方。やがて,スコールになった。それでも,大丈夫だと自分に言い聞かせた。わたしたちは主の僕なのだ。主に仕える者たちを,主は守ってくださる。だから,恐れることなどない。

巨大な波に乗り上げ,スクリューが海面から出た。こうなることなら,帆船にしておけばよかった。帆船は風に逆らわないから,転覆しない。モーター船は波に逆らってしまう。

船はまるで大きな坂を上っては下るように,大波を越えて行く。波の底から見上げると,巨大な波が真上から迫って来る。恐怖が募る。正面から波にぶつかるのを避けようと,船長は船の向きを変えた。

巨大な波を越えようとして,スクリューがフル回転する。神の守りを感じてはいたが,かなり危険な状況であることも確かだ。どんなジェットコースターよりも,恐ろしく,危険だ。

大きな波の頂上に上ると,そのすぐ後ろから,さらに巨大な波が迫って来るのが見えた。波の山を降り始めると,船は激しく向きを変え,その瞬間,あの巨大な波が轟音とともに船のへさきを捕らえた。まるでライオンがネズミの死骸を投げ捨てるように,船を吹き飛ばした。

次に何が起こるか明白だった。わたしたちは身を寄せ合い,とにかく,つかめるものを握り締めた。最後に覚えているのは,けたたましいスクリューの音と,「船を捨てろ!」という船長の叫び声だった。

空中を飛んでいる間,わたしは思った。「こんなのうそだ! 守られるはずなのに!」その瞬間,これまでの人生が走馬灯のように駆け巡った――あたかも喜怒哀楽のない記録映画を見ているかのように! 信念が打ち砕かれ,不平がよぎったが,何とかなるという気持ち,小さな平安の光が見えたような気がして,不思議と心は静かだった。

強風を切り裂いて,わたしは空中を見る見る落下し,荒れ狂う海に突っ込んだ。水に入った瞬間思った。ほかの2人はどこだ? 船はどこだ? 頼むからわたしの上に落ちて来るな! 狂ったような船のスクリュー音が,聞こえ続けていた。

わたしは海中深く沈んだ。かなり深く沈んだにもかかわらず,なおも底へ,底へと引っ張られる。水圧がどんどん強くなる。肺が破裂しそうだ。この苦しみは,いつ,どのように終わるのか? 聖典はどうなったのか? パンフレットは? 船に載せていたほかの荷物は? 聖典の中に丁寧に挟んだ真新しいバプテスマ証明書は? こんなときにそんなことを心配するなんて。

やっとのことで海面に浮上して,水圧から解放された。でも,そこは怒り狂った海の真っただ中だ。2人の姿は見えない。聞こえるのは荒れ狂う波と風の音だけ。

さっきの不平がよみがえってきた。「ありえない! こんなのうそだ! 宣教師がこんな目に遭うはずがない! 泳ぐ必要などないはずだ!」でも,そう言ったところで,わたしは実際,嵐の海に放り出されており,不平を言う暇があったら,泳がなければならない。

そんなことを考えていると,また巨大な波に飲み込まれ,海底へ沈められた。再び水圧と戦いながら,大切なことを悟った。「不平を言うための余分なエネルギーなどない。泳ぎ,息をつなぎ,頭を海面から出すために,全力を尽くすのだ。」サンダルは脱げ,シャツは裂けていたが,幸運にもネクタイとベルトは残っていた。

2度目に海面に浮上した。今度は泳いでみたが,無意味だった。波にもてあそばれ,まっすぐ進めない。荒れ狂う海は,まるでわたしを引き裂くまで満足しないかのようだ。

もうだめかと思いかけた。そして,また海の深みに沈んで行った。そのとき,何とかなるという思い,あの平安の光が,もう一度頭をよぎった。そして,救い主が荒れる海を鎮めておられるのを感じた。心の中で叫んだ。「主よ,お助けください! おお,どうか,わたしを助けてください!」

すると,あの平安の光が,大きく,力強く輝き始めた。3度目に海面に浮上した。今度は,少なくとも水から頭を出し続けようという勇気がわいてきた。どこかから支えを受けていると感じた。全力を尽くせば,きっと大丈夫だ! 再び,泳ぎ始めた。

時は昼下がり,いちばん近い小島を通過してから1時間も過ぎていない。大波に持ち上げられた瞬間,四方を見渡した。下降し始める直前に,あの小島の影が見えた。はるかかなただが,確かに,あそこにある。小島のある方向に泳ぎ始めた。

頭の中には,荒れ狂う海から開放され,浜辺にたどり着き,大地に足を着けることしかなかった。ほかの2人を探したが,何も見えず,何も聞こえない。次の高波に持ち上げられたとき,モーター船の破片が見えた気がしたが,はっきりと確認できない。

泳ぎ続けた。混乱してはいけない。力を出しすぎてはいけない。島ははるかかなただ。できるだけ長く浮いていなければならない。海面から顔を出すためだけに力を使おう。スコールはやがて過ぎ去る。風も波も,少しずつ弱まっているようだ。

泳ぎ,浮かび,仲間を探した。ついに,波の向こうに一人を見つけた。どうやら無事らしい。わたしは,島の方角を指差した。彼は反対方向を指差した。見ると,もう一人の仲間がいた。彼はもう,あきらめかけているように見えた。わたしたちは島の方向に向いながらも,互いに近づこうとして泳いだ。

どれだけ長く水の中にいたか分からない。おそらく,すでに23時間は過ぎただろう。嵐は去ったが,波はまだ荒い。だんだん陽が傾いてきた。わたしたちは,互いの様子が分かるくらいにより添って泳いでいる。疲れてきたが,たとえ筋肉がつったとしても,沈みそうになったとしても,そばの2人が助けてくれると思うと安心できた。

時間が経過し,少しずつ,少しずつ,陸に近づいて行った。風と波はかなり穏やかになった。右を泳いでいた仲間が叫び声を上げたので,見ると,ぐらつきながら何かの上に立って手を振っている。海面のすぐ下に岩が隠れていて,その上に立っていたのだ。それまでずっと,頭を海面の上に出すことばかり考えていた。でも,彼を見た瞬間,つかの間でも岩の上に立てるなら,どれほど嬉しいだろうと思った。近づいて行き,同じ岩の上に立った。首から下は水に浸かっているが,なんてよい気持ちだろう。陸地までは,まだかなりある。でも,このひと時が,まるで優しい励ましの声のように,心配しなくて大丈夫という気持ちにしてくれた。

再び泳ぎ始めた。わたしは考えていた。「だれでも,時々,安心させてくれるものが必要だ。励ましの声や,愛しているよ,信頼しているよという言葉,言い換えれば,大海のただ中で足場を与えてくれる岩が必要なのだ。ほんのつかの間でもいい,そのような励ましを感じることができれば,前進する勇気がわいて来る。」わたしは,目には見えないけれど,どっしりとした,あの岩に感謝した。そして,これからはもっと頻繁に人に愛と励ましを伝えようと思った。

わたしたちは,さらに身を寄せ合うようにして泳ぎ,時には笑顔を交わしさえした。長い,長い間,ゆっくり,ゆっくり泳いだ。陽が沈む間際に足が海底の砂や岩に触れた。半分泳ぎ,半分歩きながら,ついに陸に上がった。乾いた砂を踏みしめるとは,なんと心地よいことか! 水から上がっても,わたしたちはまだ寄り添っていた。そして,心からの感謝の祈りをささげた。

島の人がわたしたちを見つけ,家に招いてくれた。わたしたちはことの次第を話した。彼らは,できる限りの助けを申し出てくれた。わたしたちは,手厚いもてなしを受け,そのまま数日世話になった。後日,船とともに捨てた荷物の場所を探し,島の人々の助けを借りて,また好転にも恵まれ,そのほとんどを回収することができた。そして,天候の穏やかな日を選んで,本拠地の港へ帰ることができた。

わたしはこの経験について何度も考えた。あのとき,神はわたしたちとともにおられ,わたしたちを救ってくださった。神は,嵐の海の中を,わたしたちに傷一つ負わせずに,パンガイ港まで連れて行く力を持っておられたはずだ。しかし,何か理由があって,神はそうしないことを選ばれた。主はあるときには嵐を鎮め,またあるときには,子らを鎮めるために嵐を起こされると聞いたことがある。

あの時なぜ嵐が起きたのか,なぜわたしたちに直撃したのか,なぜあのようになったのか分からない。でも,結局は安全に港にたどり着いた。あのような事故にもかかわらず,命を守られ,しかも主の救いの力と憐れみを直接体験することができた。

人生の中で,わたしたちはよく,正しいことを正しい方法で行っているのだから,必ずよい結果が得られると考えることがある。でも,人生とは海のようなものだ。時にはスコールや嵐に遭い,物事は思ったように進まない。たとえ,自分では正しいことをしているつもりでも,スコールはやって来る。けれど,神は台風の目の中にいるわたしたちを見つけ,荒れ狂う海を泳ぐ勇気を与えてくださる。わたしたちは,穏やかな海からは決して学べないことを,嵐から学ぶ。

このとき,主の言葉がわたしたちすべてに当てはまることを以前よりも実感できた。「たとえあなたが深みに投げ込まれても,たとえ寄せて来る大波があなたを巻き込もうとしても,たとえ暴風があなたの敵となっても,たとえ天が暗黒を集め,すべての元素が結束して道をふさいでも,また何にも増して,たとえ地獄の入り口が大口を開けてあなたをのみ込もうとしても,息子よ,あなたはこのことを知りなさい。すなわち,これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう。」(教義と聖約1227

わたしはエジプトの牢屋に入れられたヨセフのことを思い,ミズーリの監獄の中に入れられたジョセフ・スミスのことを思った。そして,主がジョセフにすべてのことを堪え忍ぶように言われたことを思い出した。またヨブや,ひどい苦難に遭っている現代の人々――おそらくは自分の行為の結果ではない苦難に遭っている人々のことを思った。事故や病気で障害を背負うことになった人々のこと,また,家庭の夕べやそのほかの勧められていることをすべて行っているのに,家族の中のだれかが悪を行っている家族のことを思った。わたしは悟った。人生の嵐やスコールは,わたしたちすべてに及ぶのだ。

わたしは,それまで以上にはっきりと理解した。わたしたちが正しいことを行っている限り,たとえどのような状況にあろうとも平安を与えるという約束を,主はわたしたち一人一人と交わしておられるのだ。それが真実であることを知っている。その平安は,わたしたちが考えるようには与えられないかもしれない。わたしたちが望む時間や,場所や,方法では与えられないかもしれない。けれども,永遠の観点から見て,わたしたちに最適の方法で与えられるのだ。そして,そのときが来れば,わたしたちは,今は理解できない事柄に対して,主をほめたたえることになるだろう。

何年も前,あの島々で,人生のスコールを乗り切れることを学んだ。そして,自分にこのように言い聞かせた。「スコールや嵐に遭ったときには,不平を言うことと,海面から頭を出すことを,同時にするほどの余力はない。泳ぐだけで精一杯だ。なぜだろうと悩んだり,不平を言ったりすることではない。陸に着かなくてはならないのだ。嵐の理由は主にお任せすればよい。なぜと問うためのエネルギーを,泳ぐ方に回すなら,もっと多くの人が,主の助けを受けて,陸に到着できるだろう。」

この出来事は,若いころ初めてトンガで伝道したときに学んだ多くの事柄の中で,もっとも典型的なものだ。

伝道を通して何か学んだことがあるとすれば,次のようなことだ。もしも誠実に義務を果たす努力をし,熱心に働き,忍耐強くあり,よく祈り,そして何よりも,神への変わらぬ信仰を持ち続けるならば,神が望まれるどのようなことであれ,成し遂げることができる。なぜなら,神はいつも約束を果たしてくださるのだから。

ではこれから,わたしの物語を始めよう。

翻訳: 神田央