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トンガよりのストーリ

ジョン・H・グローバーグ

 

 

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嵐の目(Eye of the Storm)

はじめにー1部

わたしが生まれ育ったのは,アイダホ州のアイダホフォールズだ。町中のだれもが,互いのことを知っているような場所だった。みんな,わたしの父のことをよく知っていた。わたしの子供時代は,大恐慌時代だった。わたしの家も貧しかったが,そのことを気に病んだり,不平をもらしたりしなかった。 

アイダホフォールズは農家が多かった。みんな働き者で,どこの家にも食料は十分あった。「しっかり働け」「ものを無駄にするな」などとしかられたことはない。それが常識だったので,そんなことは当たり前のことだと思っていた。毎日同じ服を着て,朝・昼・晩,芋を食べた。学校へ行き,缶けりや,「レッド・ローバー」(はないちもんめ)などをして,家族や友達と楽しく過ごした。 

第二次世界大戦が始まり,生活が一変した。5歳のころ,夜中に,新聞少年の声が聞こえてきた。「号外! 号外! ドイツ空軍,ポーランドを爆撃!」ベッドで寝ていたわたしは,掛け布団で顔を覆った。何だかよく分からないけれど,悪いことが起きたのだと感じた。 

真珠湾攻撃は,小学2年生のときだった。その日は日曜で,皆おじの家に集まった。おじの息子たちは海軍でハワイにいたのだ。ラジオにじっと耳を傾けていると,部屋の隅からすすり泣く声が聞こえてきた。当時のわたしにはよく理解できなかったが,やはり,何かとても悪いことが起きたのだと感じた。 

わたしにとって,戦争の記憶は,愛国主義と配給だ。ある晩,父がこう言ったのを今でも覚えている。「驚くな。今夜は,本物のバターが食べられるぞ。」新聞の大見出しの黒い文字,鳴り響くサイレン,学校での空襲避難訓練。映画もラジオも,日本人とドイツ人を憎むように扇動した。でも,彼らを憎むことはできなかった。近所には日本出身の農家が多く,みんな働き者だったし,学校にも日本人の子供がいて,みんないい友達だった。近くで道路工事をしていたドイツ人捕虜の青年たちも立派な若者に見えた。 

子供時代の遊びは,兵隊ごっこ,パイロットごっこ,海軍司令官ごっこだった。木の枝に登って,パイロットごっこや,大砲ごっこ,爆撃手ごっこなどをした。その枝に登れば,いつも爆撃に成功し,相手の攻撃を受けることもなかった。 

当時は,キャプテン・ミッドナイト(ラジオ番組)や,トム・ミックス(映画俳優),ジーン・オートリー(歌手),ローン・レンジャー(西部劇)たちが,ラジオドラマで活躍した時代だ。わたしのお気に入りは「ザ・シャドー」だった。(「人の心にどんな悪が潜んでいるか,だれにも分からない!」と聞くたびに,「でも,あの主人公にならきっと見抜けるはず!」と思った。)家に帰って続きを聞くのが待ち遠しかった。テレビはまだなかった。 

イーストサイド小学校の3階の窓からの風景は,ラジエーターの熱波でぼやけていた。その熱波の向こうには何があるのだろうと思っていた。 

父はワード(末日聖徒の教会)のビショップ(宗務指導者)だった。母は毎週日曜に教会でオルガンをひいた。家族みんなで教会に行った。 

わたしは,いい時代に,いい場所で成長したと思う。みんな働き者で,愛国主義者で,家族を愛していた。金持ちは一人もいないけれど,みんな満足していた。ある日,お気に入りのコーデュロイパンツをはいて学校から帰る途中(そのパンツを毎日はいていたものだから),二人の婦人がわたしを見て,「かわいそうに,ズボンが一本しかないのね」とささやいていた。わたしは振り返って怒鳴った。「僕はこれが好きだからはいてるんだ。お母さんが作ってくれたんだ!」それはほんとうのことだった。それしかはくものがないなどと考えたことすらなかった。 

6歳のときアイダホフォールズ神殿の定礎式に行った。父がマッケイ大管長の写真を撮っている間,大管長の帽子を持った。そのときもあのコーデュロイパンツをはいていた。 

5年生のとき,校長のミス・バンカーが全校生徒を校庭に集めて,気をつけの姿勢で立たせ,旗を半旗にさせた。以前,フランクリン・D・ルーズベルト大統領が亡くなったときにもそうだった。でも,この日はもっと厳粛だった。バンカー校長はわたしたちに頭を下げるように言い,原爆について説明した。何千人もの人が殺されたこと。新しい時代に突入したことを話した。よく理解できなかった。でも,大きな変化が起きつつあることを強く感じた。 

戦争は終わった。ども,冷戦が始まった。鉄のカーテンと朝鮮戦争。新しい勝利と新しい敵だ。 

中学,高校は楽しかった。ドライブイン,テスト,球技,ダンス,デート,演奏旅行,バイト,ドライブ(アイダホでは14歳で免許を持てた)。わたしはピアノ,トランペット,フレンチホルンを演奏した。好きだったとか上手だったとかは,自分ではよく分からないが,みんなが期待してくれていたし,頑張っているところを見てほしかった。 

ピアノの稽古に行きたくなくて,ポケットにかえるを入れたことがある。かえるの鳴き声が聞こえると,女の先生にしかられて,かえるを外に逃がしてやった。家に帰らせられることを期待していたのだが,結局,手を洗ってレッスンを続けた。 

いろいろなバイトをした。金物店の店員,測量,農業,庭仕事,芋の収穫,除草,砂糖大根畑。教会の福祉農園でも働いた。また,断食献金を集め,「貧しい人々」を助けた。 

わたしには10人きょうだいの3番目で,姉が2人,妹が2人,弟が6人いた。きょうだい全員音楽が好きだった。音楽だけでなく,学校,教会,演劇,仕事,それから、夏休みに親戚に会いに行くことも好きだった。休みになると,ユタ州,カリフォルニア州,イエローストーンなどを旅行した。わたしは,1952年にアイダホフォールズ高校を卒業した。 

次は大学だった。ブリガム・ヤング大学の隣の古い軍寄宿舎での生活と,予備役訓練課程から,軍人生活を少しだけ味わった。初デートの相手は,カリフォルニア出身のジーン・サビンだった。わたしの姉とジーンの姉がマッチングしたブラインドデートだった。その日以来,わたしはジーンにひかれている。美しいのに,気取ったところがなかった。優しく,捕らえがたく,神秘的なのに,親しみやすかった。いつか彼女と結婚したいと思った。互いにほかの相手とデートすることもあったが,結局はまた二人でデートするというパターンだった。そんなふうにして2年が過ぎたころ,わたしは伝道の召しを受けた。 

当時,伝道に出るには,自分の番を待たなければならなかった。徴兵委員会からの命令で,一つのワードから年に2人しか宣教師を送り出すことができなかった。朝鮮戦争が終わった年はわたしは16歳で,徴兵も以前ほど厳しくはなくなっていたが,徴兵委員会がわたしの伝道の許可を出したのは,わたしが20歳になる手前だった。 

宣教師志願書を提出すると,伝道の召しを受けるのは23週間後になるだろうと言われた。しかし,その期間が過ぎても召しの知らせは来なかった。首を長くして待った。さらに数週間が過ぎ,ソルトレーク・シティーの教会本部から知らせが届き,もうしばらく待つようにとの指示を受けた。何か問題でもあるのかと思いながら待っていると,2か月後にデビッド・O・マッケイ大管長の署名の入った,トンガでの伝道の召しの手紙が届いた。 

わたしは興奮した。トンガについて何も知らず,アフリカの国かと思った。世界地図と百科事典で調べて,トンガが南太平洋の国だと分かった。尊敬する親戚に,トンガに召されたことを話すと,彼はわたしの目を見て,「ええっ? 君のような聡明な青年が? どうして,イギリスのような文明国に召されなかったんだ?」と言った。わたしは彼の態度にがっかりしたが,気を取り直してこう言った。「わたしはトンガに行きます。きっとそこはわたしの行くべきところなのです。主がそこに行くようにわたしを召されたのです。この召しはきっと御心にかなっています。」 

1954年の817日に出発する前に,いろいろなことが同時に起こった。わたしはジーンに手紙で召しについて伝えた。二人が約束したことは,ただ,時々手紙を書くことと,「この先何が起こるか見守ろう」ということだけだった。出発する前日に,姉が結婚した。みんなで神殿に行き,一日中家族で過ごし,わたしはその夜の夜行列車で,伝道を開始するためにソルトレーク・シティーへ向かった。 

ソルトレーク・シティーでは,新任の宣教師のために3日間のオリエンテーションがあり,その後ロサンゼルス行きの列車に乗った。ほかに6人の長老たちが一緒だった。3人はオーストラリアに,ほかの3人はニュージーランドに召され,トンガに行くのはわたしだけだった。 

ロサンゼルス駅ではカリフォルニア伝道部の会長が出迎えくれ,伝道本部へわたしたちを連れて行ってくれた。伝道本部は,完成間近いロサンゼルス神殿の隣に位置していた。食事をして,少し休憩した後、わたしたちは,伝道部会長に連れられて,ウィルミントン港へ行った。そこで,荷物を汽船ベンチュラ号に載せ,アメリカ領サモアのパゴパゴへと向かう予定だった。

翻訳: 神田央