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メりーディアン 日本語 |
母の歌 |
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母の歌 渡部正和 結婚前の渡部正雄
1932年に長春(満州国時代は新京と改名されていた)高校を五年で卒業した後、新しく建国された満州国の中央銀行に就職した。初めは、父親に頼まれて、商業学校に入学したばかりの弟の学費の援助をしていたのだが、その弟が肺結核のため亡くなってしまったため、自分の学費を稼いで、二年後の1934年にハルピンにあった日露協会学校(後に国立哈爾濱学院大学校と改名)に入学した。ハルピン学院大学校とは、当時外務省が海外に二校作った官立学校の一つで、上海にあった、中国語のための東亜同文書院と並ぶ、ロシア語の専門学校だった。ユダヤ人に外務省の許可無しにビザを発給したので有名になった杉原千畝氏もここの卒業生で、同窓生の、伊神孝雄セントラルパーク社長によると、旧制高校を出て全国から受験し選抜されてくる学生や、一高に合格していたが海外雄飛の夢で入ってきたという優秀な学生の集まるところで、非常にレベルは高いが、変わり者の多い学校だったと述べている。(六千人の命のビザ、232〜233ページ参照)。 うとき人 このハルピン大学時代に父が生涯「うとき人」と呼ばれる根拠にもなるような事件が二つ起こった。一つは、精神異常になったことと、もう一つは、宗教に傾倒し始めたことであるが、両方とも直接母と結ばれるきっかけとなった。父もマメに日記をつける人だが、この時のことを書いた父の記録を引用する。 入学後夏休みまでは寮生活をせねばならなかったが、その後は語学上達の為、自由にロシア人の家庭に下宿できたので、僕も夏休みには家に帰らずロシア人の家庭に下宿した。しかし、生活が急変した関係か、一週間ほど眠られず頭が変になってしまった。持ち物を全部売りとばし蒙古にでも逃避しようかと考え、中国街に行李を運んで品物を売り始めた。見ていたある中国人が怪しいと見て、当時中国街にあった日本の警察派出所に報告したので、日本の巡査が来て派出所に連行されてしまった。私は、そのとき巡査の出て行った隙を見て、よほど、かかっていた巡査のピストルを抜き取って、(自分の)頭を撃とうかと思ったが、ここに血まみれに倒れている僕を見て親がどう感じるだろうかと思ったらとてもピストルをとる気にはなれなかった。巡査部長が入って来て、「おまえは、親がいるのか。こんなおまえの姿を見たら親がどんなに悲しむか」となだめられ、遂に帰ることに決めた。その七年後私が北京大使館に任官して、当時大使館に付属していた日本領事警察の食堂に行ったら、その巡査部長がいてびっくりして、「こんなに偉くなられて(当時、領警は大使館員に仕える地位にあったので)」と驚嘆されたが、私はあのときの彼の言葉に心から感謝している。 一年休学して(もし休学していなかったら尚子とも結ばれなかったと思う)父の友人の紹介で、今のPL教団、ひとの道教団に入り、気分もよくなって夏休みが終わって一年遅れて学校に帰ると、なぜかまた級長に選ばれた。そのとき奉天中学から推薦入学していた、尚子の兄さん、渡部仁(わたなべまさし)君とすぐ親友になった。不思議な縁で同県同姓であったが、尚子の方は、会津若松出身で「わたなべ」と呼んでいたが、僕の方は、相馬原町出身で他の人々が「わたべ」と呼ぶので「わたべ」としてしまったと父は言っていた。朝の三時から起きて、摂氏零下30度にも落ちる厳寒のハルピンの凍った道路を一時間近くも歩いて教団に通って修行している僕を見て、何と感じたか、彼も入団して一緒に通った。そしてその冬休み彼の家に遊びに行ったとき、その妹であった尚子に初めて逢った。1935年の正月だったから尚子はまだ14歳の子供であった。正月だったので、羽子板などついて遊んだが、赤いセーターを着て顔色は少し浅黒かったが無邪気な顔は愛くるしいなと感じた。 その年の春、僕達が二年生になった時、全校生徒が校長排斥のストライキを三日間した。僕達の教団に仁君の他に学友が二人加入していたが僕達三人がストライキに反対して授業に出た。僕達がバリケードを突破しようとしたとき柔道部のもさがベースボールのバットで打とうとしたが、僕達が無抵抗なのを見て、他の者たちが阻止したので、殴られはしなかった。三日間の後、ぼくらの方が勝って校長は留まった。 僕達が二年生の夏休み過ぎ頃から仁君の体調が悪くなった。彼は、教団の教えに従って、医者に見てもらいに行かなかった。だんだん悪くなってきたのでやっと見てもらいに行ったら、肺結核で相当進行していると診断されてお父さんが迎えに来て奉天の家に帰って入院したが、その年の12月14日、皮肉にも彼の誕生日に満二十歳の青春の花として散って行った。彼が私の教団に加入して医者にかからず手遅れとなったことがその死因であったと解釈した同級生の非難の目は私に向けられた。私はすぐ代表を退いて皆に謝罪し、まず誰よりも両親に深く詫びてその償いとしてどんなことでもしなければならないと決心した。そうしたら、彼のお父さんが学校に来て彼の妹さん尚子の婿になってくれないかと頼まれた。非常に意外な申し出に私は面くらった。私は、絶対に養子にはなりたくないと何度か断わって成長して来たのだが、この場合、一も二もなく即刻承知した。その後、尚子の両親が私の家に来て両方の両親で盃を取り交わし(私の両親も許諾したので)養子となった。ところが、兄が猛烈に反対し出したので、どうせ同姓だからどちらでもよいと言うことになり、尚子の継母の三人の息子たちもどんどん成長してくるので、嫁に出してもよいと言うことになったのである。
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