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メリディアン 日本語 |
母の歌 |
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渡部尚子の生い立ち
母、渡部尚子は、1921年4月1日に東京で渡部(わたなべ)源五郎と愛衛(ちかえ)の三番目の子として生まれた。父、源五郎は、陸軍の主計大佐として、満州の天津の大使館に赴任した。1925年5月7日、尚子がまだ四歳になったばかりの時に愛衛が全世界を襲ったインフルエンザの犠牲になり、死別してしまう。母はこのことを全然覚えていないが、母が生涯、一番信頼し、心から慕っていた母の姉、太田智子(おおたちえこ)伯母によると、母の母、愛衛は、母のことが一番心配だったらしく、「尚ちゃん、尚ちゃん」と言いながら亡くなっていったそうだ。 母は、この記憶にない実母を慕い恋しがっていた。母は、継母、徳についてはぼくたちにはほとんど何も話をしなかったが、智子伯母の話によると、非常にみじめな思いをさせられたようだ。母によると、それは徳お母さんのせいではなく、まったくその家庭事情がそうさせたと言っている。まず、実母、愛衛は、華族の出身で、嫁いできたときに「やえ」という女中が一緒に付いてきた。この女中が、愛衛の死後、愛衛の最後のことばに忠実に尚子の面倒をよく見てくれたのだが、源五郎が徳と再婚するや、暇を出され日本に嫁いでいってしまった。幼い尚子は、徳お母さんが家にくると、新しい女中でも来たのかと思ったらしい。徳お母さんに「尚子」と呼ばれて、「尚子じゃありません、お嬢様と呼びなさい。」と言って、とても叱られたのだそうだ。母が九歳になる1930年には義弟正、32年に義妹和子、34年に義弟昭、38年に末っ子允と次々に生まれ、母はまったく無視されるか忌むべき存在になってしまった。母は、ひとりで本を読んでいるのが大好きで、ぼくのオフィスに置いてある29巻の日本文学全集を始めから終りまでほんの数週間で読みほしてしまうほどであるが、この読書力は、小さい時のこんな境遇に由来する。母が学校から帰ると徳お母さんがほとんどいないので、鍵のかかっている玄関の前でひとりでよく本を読んでいたと、智子伯母がよく言っている。 源五郎は、日本に転勤になり、家族は、転々と住まいを変え、母も、東京、大阪、姫路、久留米で小学校に行っている。33年、源五郎が満州国軍官学校の教師となり、再度満州奉天に引っ越す。その数年後、母の、肉親でもうひとり頼りにしていた兄、仁が、ハルピン大学へ推薦入学。しかし、1937年実母愛衛の後を追うかのように兄も病死してしまい、母は失望のどん底に陥っていった。母は、兄、仁の死は本当に悲しかったと言っている。 先妻の愛衛との子供は長女、智子がすでに三重県松阪の医者の家に嫁いでおり、長男仁が病死、尚子の弟、成は、愛衛の死後すぐに愛衛の本家三宅家を継ぐために養子に出されており、尚子以外全部かたずいていたので、源五郎は、後妻との関係上尚子を早く嫁に出したかったに違いない。それだけでなく、将来有望な外交官と決まっていた優秀生で、仁の無二の親友正雄こそ娘尚子を託すのに適した候補者だと思ったのだろう。嫁に出すどころか、婿にまでする話になっていたのである。 母に、一度、昔の人はよく見合い結婚なんかしたものだねと、昔の人の心境を聞いたことがあるが、母はおもしろいことを言った。「今の人は、恋愛結婚するけど、結婚したら恋愛のゴールイン。つまり、恋愛の終焉。でも、私のときは、結婚が恋愛の始まりだったわ」と。実家があまり楽しい思い出の家庭生活ではなかった母にとって、若き外交官夫人の生活はとても幸せだったようだ。奉天浪速高等女学校を卒業して四日目、16歳の年で結婚し、新婚旅行で東京に戻り、伊勢神宮に詣をして、また北京に赴き三年間中国の古都で新婚生活を過ごした。その間父の単身赴任のようなときは、いつも父の満州の実家旅順で父の大きな家族と楽しい時を過ごした。正雄の十歳下の弟正徳叔父がこの頃の面白い逸話をよく話してくれる。母がまだ健全で、癌の気配などまったくなかった、死ぬ一年前に、叔父がアメリカに初めて遊びに来てくれた。「旅順で、小さいとき姉さんとチョコレートで喧嘩したから、お詫びにチョコレート日本から持ってきたよ。」というと、母は、「こんなチョコレートじゃなかったね。」と、またまた例の正直な意地悪が出てくる。誠心至上を大切にする叔父は、一年後、母の最後のクリスマスに、明治屋の板チョコを何枚も携えてわざわざ東京から再度見舞に来てくれた。叔父に足を揉まれながら、楽しかった旅順での想い出が母のこの世最後の苦痛を柔げたものである。 長男正尚が正雄と尚子の愛の結晶として1940年12月9日に生まれたのもこの旅順であった。 第二章 改宗 第二次世界大戦 戦争は、多くの人の運命を変えるものだが、正雄と尚子にとっても戦争が大きな変化をもたらすことになる。1942年、正雄が北京の大使館から東京の外務省本省に転勤になり、母も東京に戻るのだが、第二次世界大戦が勃発し、父は軍隊に、母は長男正尚と、たった二か月の正二を背負い、父の実家、福島に疎開した。 ここで、母はもうひとりの「お母さん」、ツルお母さんと親しくなる。ツルお母さんという人は、コンの長姉で、正雄の父親の長兄、渡部亀治に嫁いでおり、母とは二重につながっていた。この福島疎開中に母にとても親切にしてくれ、とてもやさしいお母さんだったと母が言っていた。母は、死ぬ直前、「お母さん」という歌をぼくによく歌ってくれた。最期のときも「お母さん、お母さん」といって死んでいったのであるが、実母をほとんど知らなかった母にとって、「お母さん」というのはだれのことをイメージにして言うのか一度、「『お母さん』ってよく言うけれど、お母さんのお母さんって、だれ?」と尋ねたことがある。母は、「私にはねえ、お母さんがたくさんいたの。全然覚えてないけど、死んだお母さん(愛衛)。お徳お母さん。お父さんのお母さん、今(コン)。そしてそのお姉さんツル。」死に近づくと、母親を思うとよく言われているが、母にとって、「お母さん」というのは、高尚で尊きタイトルで存在だったに違いない。母が死ぬ直前の一、二週間口にしていた「お母さん」の歌は、ぼくの、母の最後のイメージになってしまった。どうしてこの歌を歌うようになったのか、母の代筆で一月一日の日記を残してあるので、そのまま記しておく。 1996年1月1日 ハワイの金綱兄弟姉妹(教会の会員同士を兄弟姉妹と呼び合うが、東京の神殿で一緒に働いたハワイからの神殿宣教師友達)が息子さんとわざわざやってきてくれた。明日息子さんがハワイに帰るので、帰る前に、鈴木姉妹から「お母さん」の歌の歌詞を電話でたずね、書き取ったものを持ってきてくれた。(母は、前にハワイに住む鈴木姉妹が歌ったこの歌をもう一度聞きたいと電話で歌ってもらったらしい。金綱兄弟姉妹がその話を鈴木姉妹から聞いて、電話でわざわざ書き取って持ってきてくれたのだ。)
1 お母様、まつばぼたんが咲きました。 お好きな花を見ていると私もうれしい気がします。
2 お母様、遠く離れている時も よごとの夢は故郷のあなたのそばへ帰りたい。
3 お母様、愛の泉のお母様。 冷たい雨の降る宵も、あなたを想えば晴れる胸。
4 お母様、いつもやさしいお母様。 泣くなと今も聞こえるはあなたの昔の子守唄。
正和に聞かせてやった。しかし、頭の働きも鈍くなったのか、どうも歌詞を覚えるのがむずかしい。正和は、丁度自分の頭と同じくらいになってやっと息子の気持がわかるようになっただろうと言うのだが. . . 。その後、ウェンディー・ジャンが夫と子供と一緒に来た。正和に日記を書かせているうちに、うとうとと寝てしまった。
「お母様、お母様、遠く離れている時もよごとの 夢は故郷のあなたのおそばへ帰りたい. . . 。」
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