メリディアン

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母の歌
渡部正和

 

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結婚の 条件なりきと 我が嫁は 

病得て伏す 我にふと告ぐ。 

縁ありて 夫婦となりし 我ら二人 

56年 短くはあらじ。 

又少し 背なの疼きの はじまりて 

友去りしあとの 虚しささいなむ。 

夢想だに せざりし幸に 恵まれて 

我は逝くなり 有難きかな。 

「荷物が届く正尚から。千羽鶴の一部が出て来た下に正尚の手記(これは、丁度、兄が失業中のころ。アメリカに留学してからそのときまでの苦労の体験談を手記にまとめたものを母が読んで。)」 

行間に 溢れるものの 噴き出でて 

幾度か涙 禁じ得ざりき。 

尚子10月5日 

母と云えど 入り込む隙なき 人生を 

君は生き行く 男の人生。

夢に見し 旧き友よ 目覚めれば 

もしやの思い 胸をよぎりぬ。 

母の父親は、78歳のとき、碁をうちながら脳溢血で倒れ、そのまま苦しまずにすぐに亡くなってしまった。母は、自分もそのように逝きたいとばっかり思っていたのに、周囲の人にこんなに迷惑をかける死に下手だといつも口にしていた。 

父に似て 大往生を 願いしに 

願い叶わず 我は死に下手。

尚子8月6日 

大往生 せし父に似し 我なるに 

死に下手かこち 臥して居るなり。

尚子10月16日 

「参った参った、今日の調子の悪いこと。何遍も坐薬を入れるが排便と重なって出てしまう。主人ががっかりするので、いいとこ見せたいのだけど。」

 

毎夕に さすって呉れし 手のぬくみ 

黄泉の国まで 我忘れ得ず。       

(真紀ちゃんありがとうね。)                                                尚子10月17日 

「夜10時頃寝たら、1時頃目が覚めてしまったけど歌をうたっていたら寝れた。」

(4)註釈:母の痛みはさすっていると大分やわらいだようだった。真紀ちゃんを始め、たくさんの人が見舞にきてくれ、母の痛がっていた背中やお腹をさすってくれたのだが、母はいつも感謝していた。 

目覚むれば まだ宵の口 若きらは 

下の厨(くりや)に 物刻み居り。

尚子10月19日 

襲い来る 吐き気耐えて(こらえて) うずくまる 

夜のベットの 時の長さよ。

                              尚子10月22日 

大声を 出す気力の 衰えて 

耳遠き夫と 会話の減りぬ。

 

母は勉強家で、何事でもノートに書き取っておくのだが、自分の体重の減り方も細かく観察していた。 

8ポンド 5ポンド3ポンド 体重の 

減るの遅きを わずかに慰む。

尚子10月29日 

行く末は ナースになりたしと 孫娘の 

暇ある毎に さすりくれゆく。 

数々の 癌によきもの ならび居て 

我枕辺は 薬屋のごと。

 

「エアポート行きに緊張したのか、夕べは本当に眠れず参った参った。でも、聖子が朝食をちゃんと作ってくれたのできちんと食べ、聖子に付き添われてポーレットを大分待ったけど、8時45分頃無事出発。秋色濃いフリーウェーを飛行場へ。久し振りの外出は心が弾み胸が躍る。まだまだシャバッ気があるナ。聖子が、一日中ベッドに居て癌の体ばかり見ていたら確かに良くないから、たまに外気浴、まだジョッギングは無理だから散歩ならぬ散車をしなさいと言ってくれた。とにかく、痛み止め、吐き気どめは持ったけど、使わずに空港で一時間も出発遅れたのに往復できて幸せこの上なし。聖子がパンと水を食料として用意してくれて、正和とポーレットは車椅子を用意してくれて一歩も歩かずにすんだ。元気なミッシェルと感激の対面。帰りの時は果たして逢えるかどうか. . . 。すべては御旨のままだけど。(これは、長女ミッシェルがブラジルに伝道に行く出発の日。結局は、これが母の最後の遠出になってしまった。)」 

あれを持ち これ着てあれ付け これを持ち 

久方振りに 心はしゃぎぬ。

尚子10月30日 

今生の 別れとならん ミッシェルの 

伝道の前途を祝い 固く抱きあう。 

若き娘ら 二人三人 集い来て 

我が枕辺に 春の来たりぬ。 

妹、聖子と安子の旦那たちに今でも感謝しているのだが、妹達に母の看病に行ってやれということで、代わり番でカリフォルニアからわざわざ一週間おきに来ていたが、母はそれをとても楽しみにしていた。 

枕辺の カレンダーに ピンさして 

娘ら待ちわぶ 病にしあれば。

尚子11月2日