メリディアン

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母の歌
渡部正和

第12章

 

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第二部    幸せを求めて 

第一章 ありのまま

幸せを求めて

母が言っている「幸せ」というのは一体どんなものなのか、また、母も最初はほとんど何もわからずに、ただ父の行く道に従った末日聖徒イエスキリスト教会とはどんなことを教えているのか少し説明しておきたい。末日聖徒は、キリスト教徒と言っても、一般に思われているクリスチャンのイメージとは少々違うところがあり、その根本的な神とかキリストについて説明を加えたほうが、父と母の人生をもっとよく理解してもらえると思う。ただし、ここに付け足すことは、全く教義的な説明を意図としてはおらず、これが、父と母の、そしてその育て上げた家族の考え方や生活にどのような影響を及ぼしているかということだけである。教義的なことは、専門家にお任せすることにして、少なくともぼくらが解釈している福音の原則を知ることにより、父母だけでなく、このキリストを信じて生活をしている人達の人生観がもっとはっきりするだろうと思う。 

わたしたちは、永遠の父なる神と、その御子イエスキリストと、聖霊とを信じる。

(信仰箇条第1章) 

この教会のまず第一の教えは、全世界の創造主で、私達の霊の父親である神と、その御子イエスキリストとその証人、つまり、聖霊を信じることである。こう言うと、なぜか西洋の教えで、日本人にはかけ離れた考えのように思われがちだが、そんなことはない。聖書とともにイエスキリストの証人として信じているモルモン書によると、イエスはアメリカ大陸の人々にも現われ、「わたしは、東の地、西の地、北の地、南の地、また海の島々にいるすべての者に、わたしの語る言葉を書き記すように命じる。」(ニーファイ第二書29章11節)とあるように、全世界の救い主である。つまり、ぼくらが信じる神は、西洋とか東洋の神ではなく、全世界の神である。

また、神とか目に見えない霊とかを信じるというのは、何か非科学的で昔の盲信かのように考えられがちである。ぼくの高校の先生が、「まさかこの年になって神とか仏というようなおとぎ話を信じている人はいないだろうな」と言ったのを覚えている。

日本は、戦後、昔のものは何でも悪いかのように、科学的でないものや、目に見えないものをすべて否定する世の中になってしまった。しかし、私達は、人間が単に肉体だけからなるのではなく、肉体とこの肉体の中に宿る霊とからなっていると信じている。霊と言うと、宗教的な言葉で、非現実的に聞こえるかもしれないが、霊は、人間の頭と心、つまり知と情を司る精神的なものとでも思えばいい。言い換えれば、実存する人間の、目に見えない部分である。肉体をこの地上の両親から受け継ぐように、霊は、神が創造したものと信じる。生を受けるというのは、この神からの霊が地上の肉体に宿るということで、死は、その反対で、霊が地上の肉体を去るときに生じる現象だと信じる。

「神は、また言われた。『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1章26ー27節)と書かれているように、私達は、神と同じ形、つまり、霊と肉体で造られた。

神がすべてを創造なさったと信じるものの、無から造り上げたとは信じていない。すべての物を組織なさったと考えたほうがいい。簡単なたとえで言うなら、水素とか酸素という元素は、永続するものと考える。しかし、 2H + O2 = 2H2O という方式を作られたのが神である。人間でもこの神の方式に従えば、水を作り出すのは可能である。人間がDNAを変形して、遺伝子を変えていくことも可能であろう。しかし、実眼で観察できる科学的現象の元になる、目に見えない法則とか規則をお作りになったのが神である。人間が真実を求めて行くのは、この神の英知の、ほんの小さな部分部分を明かにしていくことであると信じている。

日本でも、神とは呼ばないが、母なる大自然とも言うべき、漠然としたものが自然を支配していると信じる人がたくさんいるが、末日聖徒が信じるのは、このような母なる大自然たるものが、人間と同じ形をした神だということである。

この神は、人間が幸せになることを望んでおられる。「人が存在するのは喜びを得るためである」(ニーファイ第二書2章25節)と記されてあるように私達がこの世に生を受けたのは、幸せになるためである。しかし、幸せというのは、十人十色と言われるように、人によって全く違う。神の思し召しの幸せと、人間、凡人の思う幸せとはかなり違うものだろうが、それほど違ってはいないはずである。ただ、神を信仰することによって、人生が単に一時的なはかないものではないと信じ、もっと永続する人間の存在からみた幸福論を考えるのである。母の人生のようにその時その時には辛そうな試練であっても、人生は、最終的な幸せに繋がっていく過程であるべきである。信仰と希望は、その苦しみの過程を通り抜けていくために非常に大きな力と理解とを与えてくれる。

神が私達に望んでいることなどは、ぼくらにはほとんど見当もつかないことなのだろうが、少なくとも、愛するものと一緒に永続できるというのが私達、末日聖徒の信ずるところである。そのために、神はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたと信じている。

第二章 イエス・キリスト

イエス・キリスト

まことに、将来来られるイエス・キリストのあがないの血によってのみ人は救われる。(ヒラマン書5章9節) 

見よ、イエス・キリストとは、父から与えられている名である。この名のほかには、人に救いを与えることのできる名は与えられていない。(教義と聖約18章22節) 

すべての人は悔い改めてイエス・キリストの名を信じ、イエス・キリストの名によって御父を礼拝し、またイエス・キリストの名を信じて最後まで耐え忍ばなければならない。そうしなければ、神の王国に救われない。(教義と聖約20章29節) 

「イエス・キリストは神のひとり子と信じる」ということは、神とイエスは違ったお方であると信じているのである。確かに、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1章26ー27節)と書いてあるように、神とイエスは別々のお方である。イエスは、霊的には、神が一番最初にお造りになったお方であり、ぼくらの長兄にあたるお方である。また、肉体的にも神の唯一の御子と信じる。なぜ、この世に遣わされたかと言うと、全人類の始めであるアダムとエバの選んだ道のために、人間には死がもたらされたが、それに打ち勝つためである。この教会では、人間は、善人であれ悪人であれ、すべての人が復活すると信じている。しかし、死というのは単に肉体と霊が離れるだけではなく、もう一つの死、つまり、人間の罪でもって神の御許から追い出されてしまう「霊の死」という死がある。死は、離れること、霊が肉体から離れることと、私達が神の御許から離れることを指し、キリストは、私達をこの二つの「死」から救ってくださったのである。

この教会では、アダムの罪は、罪を犯したというよりも、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。」(創世記1章28節)という戒めを守るために、通らなければいけない扉だったと信じている。ただし、「死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(コリント人への手紙15章21ー22節)と書いてあるように、イエスがこの死に打ち勝ち、復活したのである。死が霊と肉体の分離ならば、復活は、この霊が不死不滅になった体に再び宿ることを言う。イエスの復活のおかげで、全人類が復活するのである。この教会では、遠藤周作がよく描く「十字架にかけられた痩せた男の裸体」のキリストよりも、復活したキリストに重きを置き、教会堂などでも、決して十字架を置かないし、家でも十字架のキリストを飾らない。

しかし、不死不滅の状態に復活しても、これは必ずしも喜ばしいことではない。幸福な状態で永続できるのならいいが、そうでなかったら、もう死ぬことができないというのはなんと不幸なことであろうか。キリストの教えた幸福というのは、完璧でない私達でも、キリストを信じ、全力を尽くしてその教えに従えば、愛する者と再び天の父の御許に帰ることができ、永遠に進歩を続けることができるというのである。このような目的を土台にして、この地上での生活をするのである。イエス・キリストが全人類の救い主であると信じることによって世間や人生を見る目が違ってくる。善し悪しは別としてどのような違いがあるか気付いたことを八項目ぐらい記述してみる。