メリディアン

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母の歌
渡部正和

第13章

 

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1 本当の意味での人間平等、兄弟姉妹 

人類学者中根千枝氏によると日本は、タテの社会で、これは日本人の意識に潜在しているという。年功序列、先輩後輩、上役下役、親分子分、明確な序列意識ができているらしい。またこれに関係のあることだが、「場」と呼ばれる、一種の枠を作り、その枠内の集団性、グループ向性が非常に強い民族だと言われている。確かに、歴史的に言っても、形こそ違うが、根本的な人間の考え方、思想面から言ったら、日本人は封建時代からあまり進歩していないのではないかと思われる。封建時代に各殿様に命を捧げ、明治維新になって、命をお国のために犠牲にしていった男気質が、現在でも夜遅くまで会社のために、上司のために働くことこそ美徳とみなす社会の風潮に残っているのではないだろうか。

キリストだけが、人類の救い主と信ずることにより、私達は、このような人間の上下関係からのがれることができるのである。確かに飯を食べさせてくれる人、生活を保障してくれる人にはそれ相応の恩を感じるのは人間であり、「恩を忘れぬ人」にはある程度の美徳があることは事実である。しかし、飯を食べさせてくれる人でも、ただでそうするのではなく、社員の技術や働きで金儲けをしているのである。別に、恩を着るような気持ではなく、もっとプロフェッショナルな、つまり同等の関係ができない限り封建時代を脱したと言えないような気がする。

シーボルトは、「日本人は恩を忘れない民族」と言ったと伝えられており、ぼくも、父母への恩や、昔お世話になった人への恩は決して忘れないようにと心掛けている。母も、「感謝、感謝」と言って決して恩を忘れなかった。しかし、恩はあとで述べる愛と少々違い、恩を着せて恩のやりとりで動く社会には、大きな問題があるような気がする。特に、タテ社会の上の人が恩を着せて下の者からの献身的なものを要求するというような風潮は、キリストを信ずる社会ではあってはならないのである。父母がよく口にしていた後藤晋平という満鉄の総裁のことばに、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように、そして、報いを求めぬよう。」というのがあるが、人間同士の間ではそのように生きていきたいものである。そのような意味で、イエス・キリスト以外に救い主はだれもいないのだと信じることは、人間は皆平等で、皆兄弟姉妹なのであるという考え方につながる。ただ、兄弟姉妹という言葉自体も上下の関係を表わしており、年上、年下で差のない兄弟姉妹を考えないといけないと思う。確かに、「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らない」のである。 

2 信仰と家庭 

キリストを信じることによって本当の意味でもって人間が皆平等になるということは、親子の関係にもつながるのである。大江健三郎氏が国際家族記念講演の中で、「家族のきずな」について話している。親と子はお互いに上と下から権力争いをしているので、これが同方向のヴェクトルをもたない限りうまくいかないのではないかという主旨の講演である。大江氏によると、信仰を持っている人達の家庭はそういうヴェクトルを持っているのではないかというのである。氏いわく、 

「現実に、信仰を持っていられる方たちの家庭には、そういうヴェクトルがあるのじゃないですか?超越したものに対して、自分たちの日常生活を超えたものに向かって、お父さんがまなざしを注いでいる、子供たちもそれと同じ方向にまなざしを注いでいるということがあるのじゃないでしょうか?祈るということは、お父さんが子供に向かって祈るわけではないでしょう、あるいは子供もお父さんに向かって祈るわけではない。お父さんも子供も同じ方向に向かって祈っていられるのじゃないだろうか、と私は思うんです。(大江健三郎:あいまいな日本の私 90ページから)」 

これは、ぼくの育った家庭は、単に、同じ方向に祈るとか信仰するだけではなく、根本的に、父も子も皆神の元には平等であるという考えからなっている。ぼくの父の言ったことば、「正和、おまえは、実は私の子ではない。おまえの年になるまで、天のお父様から尚子と預かって育てあげただけだ。おまえの本当のお父様に祈ってどうすべきか決めなさい。」は、まさに、この教会での根本的な考え方からきているのである。このように一定の年にたどり着いた後からは全く同等に扱ってくれた父と母に心から感謝している。

この教会では、男がこの世でなすことの一番大切なことは家庭の中ですることであると教えている。「社会でのいかなる成功も家庭での失敗を償うことは出来ない」と教えているように、家族の幸せのために尽くすのが第一である。芥川龍之介が、自殺をしていく動機として、「死に向かう過程を具体的な言葉で描きたいと思っている。家族達に対する同情などは、こういう欲望の前には何でもない。」と書き残して逝ったが、この教会で教えているのは、その反対である。どのような社会での貢献であっても、家族の永遠の幸せを無視することはできないのである。仕事や社会でいくら貢献ありと認められても、最高の貢献は家族でなされるべきである。その意味で、社会的には「うとき父」も、家庭では、非常に重要な貢献をしたのである。信仰と家庭については、このほか非常に大切なことがあるのだが、それにはもう一つ、永遠性ということを説明しなくてはならない。 

3 人間の永遠性 

イエス・キリストの贖罪により、全人類が復活する、つまりこの世が人間の存在の終わりではないという希望がもてるようになったのだが、永遠に続くのは、命だけではなく、知識、創造性、愛、夫婦関係、家族関係等があると信じている。永遠に続くもののために、この教会では、神殿という特別な建物を建てる。ここでは、夫婦の絆が死別するまでではなくて、永遠に続くための永遠の結婚を行う。また、家族も永続するように家族の結び固めという儀式も執り行われる。1965年、当時、日本にはこのような神殿がまだなく、父と母がぼくと妹二人と弟を家に残してハワイに行き、永遠の結婚をした。これまた、経済的に非常に大きな負担だったが、物質的なことよりも何よりもまずこれを先決とした。その後三年して、上の兄弟三人が資金を出し合って家族をアメリカに呼び、神殿で家族の結び固めを行った。このようなことを背景に、母がその後四方八方に分かれたぼくたちに、「地球のどこに居ても、同じ方向に同じ星に向かって歩いていれば、必ず一緒になれるのだから頑張れ。」という励ましを送って来たのである。人生の目的も、この世の物よりも、永遠に続くものに時間や労力を費やすべきだと、父も母も神殿に行くのが大好きである。神殿で奉仕をしていると、煩悩から離れられると母は、よく言っていた。

神殿では、単に家族だけが結ばれるのではなく、先祖代々、子々孫々に結ばれていく儀式が行われる。この教会では、先祖の記録を調べ、先祖のためにも身代わりで救いの儀式をすることが彼らへの愛だと教えている。これは、他のいかなるキリスト教にも見られない、非常に東洋的な考え方だと思う。父もそのときまで究明していたカトリックやプロテスタントにはないこの教えには本当に感激し、自分がなぜ、他の友達のように戦死しなかったか、わかったそうである。つまり戦死した友達や、母の実母、愛衛や兄、仁のためにこの儀式をなすために生き残されたと思ったのだろう。

アメリカの有名校を卒業した中国の一学生が帰路の飛行機内でプロテスタントの牧師と隣り合わせに座ったそうである。牧師が、キリストを信じ、バプテスマを受けること以外に人間が救われる道はないと説得した。この留学生は、キリストの話に非常に感心して、「キリストのその教えはすばらしい話だが、キリストを知らずに死んで行った、私の先祖達はどうなるのか」とたずねた。その牧師は、悲しそうな顔をして、「残念だが、キリストを信じることなくバプテスマを受けなかった者は、救われない。」と答えた。「いくら真実だといっても、自分の愛する父母や祖父母の行けないところには私も行きたくはない。」と、この中国人は断わったそうである。(True to the Faith Sermons and Writings  by David O. McKay 2223ページ)

この末日聖徒イエスキリスト教会では、キリストが地上におられた頃に自ら教え導かれた教会で教えたように、死者のためにバプテスマを施す。「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。」(コリント人への手紙15-29節)と書いてあるように、確かにこの儀式は、昔のキリスト教にもあったのだが、長い間のうちになくなってしまったのである。

人間が「永遠の命」にあずかるということは、単に自分達が幸せになるのではなく、子々孫々、愛する者と一緒に永遠に住むことができるというのが、キリストの本当の教えである。

人間の永遠性を信じることにより、この世での希望が湧いてくる。母をなくして、父も本当に悲しんでいるが、もう一度母に逢えるという希望が自分を生かしていると言っている。去年、横浜に帰ったとき、父がホームレスの夫婦でさえ手を取り合って歩いているので泣けてきたというので、母に代わってこんな歌を作ってあげた。 

こじきとて 二人手をとり 歩くと言う 

母なき父の 涙哀れむ。

正和1997年7月 

こんな父を支えてくれるのがキリストを信じることにより出てくる希望である。森鴎外は、「なんだ、つまらない。」という最期の言葉で他界したそうである。人間の永遠性を信じることができなかったら、確かにこの世の中ほどつまらない、空虚なものはないのではないか。