メリディアン

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母の歌
渡部正和

第14章

 

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4 価値観 

イエスキリストを信じることにより、人間の価値観が大分違ってくる。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書6章33節)とある。神の国と神の義とは簡単に何かと言うと、永遠に続く、神との生活が可能になることである。それには何が大切かというと、霊的な物、つまり、知識とか夫婦の絆、家族との絆、先祖や子孫との繋がりというように、愛するものとの関係である。このように、永遠に続く物に力を注いだ方が価値があると信じる。しかし、確かに霊的なこと、永遠に続くことに力を注ぐように教えるが、だからと言って、この世のものをすべて否定するかといったら、そうとも限らない。来世は、この世の延長と信じ、この世での幸せが永遠に続くように生活しなくてはいけない。だから、この世の富も、霊的なことをなえがしろにして求めるのは間違えだが、善や他の人のために使うなら良いこととしている。

「しかし富を求める前に神の王国を求めなさい。キリストに望みを抱いてから富を求めるならば、富は得られるであろう。しかし、富を求める目的は、裸でいる者に着せ、飢えている者に食物を与え、束縛されている者を自由にし、病人や苦しんでいる者を救うなど、善を行うことである。」(ヤコブ書2章1819節)

「神の国と神の義」を末日聖徒イエスキリスト教会と信じ、教会のために働くのが一番大切に思っている人もいる。父も多分にそのような考え方をしていたように思う。確かに、神の御心がそうならば、そうするのがあたりまえだろうし、当時の教会の状態から言って、父のような考え方はあっていたのかも知れないが、すべての場合がそうだとは限らない。神が一番お望みなのは、個々が真の幸福を得ることである。それを助けるのが家族であり、家族や個人を助けるために教会があると考えている。だから、母が教会の奉仕の責任をもらった時に、「私の家庭を破壊するつもりですか。」と尋ねたのは本当に的を得ている。奉仕の責任を受けたために家族がおろそかにされてしまうのでは、いくら教会を熱心にやっていても意味がない。しかし、母は、このような献身的な姿で自分の価値観を、子供達に模範に示してくれたのであろう。

この教会では、キリストの時代の真の教会が回復されたと信じ、専門的な神父や牧師はいない。宣教師ですら、自費の奉仕で、一年半から二年の期限が済めば、元のプライベートの生活に戻る。いろいろな役職についた素人信者が教会の運営をしているが、これは、あくまで家族や個人が永遠の幸福を得るのを助け合うためにある。決して自分の家庭生活を犠牲にしてはいけない。個人や家族のために教会があるのであって、教会のために個人があるのではない。

教会の目的も、すべてお互い同士を助けるためにある。ただし、教会内の会員だけではなく、亡くなった先祖のため、またこの福音をまだ知らない人のためにも仕えなくてはいけないと、三つの目的が掲げられている。 

      1 聖徒、つまり信者が永遠の幸福を得るのを助けること。

      2 先祖を救うこと。

      3 イエス・キリストの福音を分かち合うこと。 

わが家も、兄二人、ぼくと弟とは、すべて大学を休学して伝道に出た。父と母もぼくらの後を追って、神殿と伝道の業に励んだというのも、教会のこの目的のために奉仕しようという望みからである。これは、わが家だけではなく、全世界、何万人という未婚の若者や、子供を育て上げた夫婦が自費で神殿や伝道活動に励んでいる。これは、普通の日本の風習や慣習では考えられない価値観である。しかし、このような価値観は、頭でわかっていても、実際の日本社会でこの価値観に徹底して生きるというのは難しいことで、父のような「うとき人」でなかったら出来なかったかもしれないし、それに耐えた母の信仰が無かったら、現在のわが家は存在していない。

母が亡くなって、母の所有物を整理していて、孫の中で、一番年長のウェンディーが口にしたのは、「グランマー(おばあちゃん)、何も持ってなかったんだね」だった。母の大切にしたもの、母を幸福にしたものは、知識であり、家族であり、友人だった。このような価値観でこの世を去って行った母の模範に心から感謝している。     

5 善悪の規準 

この教会では、すべての人の霊には、何が善で何が悪か見極められるキリストの光、いわゆる良心が内在すると信じている。確かに、社会や国、文化によって微妙な違いはあるものの、「愛し合いなさい」とか「殺してはいけない」とかいう根本的な善悪の判断は、どこの国、どこの民族、どの宗教でもできていると思う。特に、日本は世界的にも非常に道徳的な国で、この道徳心を誇りにすべきだし、永続されるように願っている。しかし、この道徳的な国、日本でも、特に、若い人の間では、今まででは考えられないようないじめとか犯罪が増え、善悪の規準が定まらなくなってきているようである。

キリストの福音を信じることによって善悪の規準が明白になってくるだけでなく、なぜある行為が善か悪か、その行為の意義と、かつ、そうしようと思わせる動機の違いがわかってくるように思われる。神を信じ、キリストが説いた福音に従うことが幸せへの道と考えると、善悪の判断は、「人に見つからなければ」とか、「他の人が皆そうしているから」とか言った動機づけは無くなってくる。

この教会のおきては非常に厳しいとよく言われる。たとえば、夫婦間以外の性行為を始め、酒、タバコだけでなくコーヒーもお茶も禁じられている。しかし、これは、神のおきてというよりも、神が私達の永遠の幸せのためにくださった道とでも考えたほうがいい。神は、私達の永遠の、至上の喜びや幸せというものをご存知で、それに到達することができるようにこのような戒めをくださったのである。教会で育ったぼく自身でも、50を過ぎて、やっとこのような戒めは、ぼくのこの世と永遠の幸せのために神がくださったのだということがわかりかけてきた。

母も、最初のころはわからなかったのだろうが、信仰生活が長くなるにつれ、自分が夫と同じ道を歩むことが自分と家族にとって終局の幸せに繋がるものと自覚したに違いない。母にとって、また家族にとって、世間的にはまったく「うとき人」でも、神に従い、一心にこの福音に生きようと努めた父は、「母のキリスト様」なのである。

この教会で教える家族の大切さの中に、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」、また、「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母を敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう。』」(エペソ人への手紙525節、615節)というように、父親は、キリストのように妻と家族を愛し、妻と子供は、父親がキリストに従った生活をする限り、父親に従うように教えている。そういう意味で誠心一貫の父は、母にとってのキリスト様になったのである。このような考え方からくる善と悪は、単に世間体や皆がやっているからというような善悪の判断とは違ってくる。

ただ、一言説明を加えておくが、教会員がすべてこの理想にそった生活をしているとは限らない。父であれ、母であれ、わが家の家族だれひとりを見ても、世間一般に思われている「クリスチャン」からはほど遠い。キリスト教徒とは、このような信仰を元に人間の弱みに打ち勝とうと努力している人々であって、実際にそう生きているのとは違う。キリストも病人のために来たのであって、完全な人にはキリストはいらない。この教会でよく言われるのだが、教会は、完全な人達の倶楽部ではなく、不完全な人達の病院である。