メリディアン

日本語

 

母の歌
渡部正和

第15章

 

戻る

 

6 信仰と御心

キリストを信じることによって、もう一つ非常に心に平安をもたらすことがある。人間の世界の中では、自分がいくらもがいても、どうにもならないことがたくさんある。その極端な例が死である。母の死もその一つであるが、人間、いくら心から願い望んで努力しても、可能にならないことがたくさんある。そのような場合、自分の力だけに頼ることをせずに、神の御心を受け入れることができるというのは、幸せというか、気が楽なものである。自分の出来る限りを尽くさないのは、自分の責任であり、自分を責める必要があるかも知れないが、最善を尽くしたあとは、御心なのである。望みがかなえられなかったというのは、神の永遠の目から見て自分のためにならないのだと解釈できる。いわゆる、「人事を尽くして天命を待つ」ということとほとんど変わりがないのだが、一つ違うのは、自分を愛してくれている神の御心だと知ることである。丁度愛する親が子供のためを思い、子供の将来を考えて子供の願いや望みを考慮するのと似ている。

人間には、運、不運というのはつきものだが、それによる結果よりも、それに対する自分の態度、対処の仕方が大切なのである。母も、子供や孫に囲まれ、これからがもっと幸せな生活になるというときに、死に面し、不運、不幸だったという見方もある。しかし、母の残した歌や日記を見ても、また、母の最期まで一緒にいたぼくの目からも、母は、この死に対しても何ら動じることなく、単に御心としか信じて疑わなかったことは明らかである。母は、「和ちゃん、向こうに行ったらたくさん御礼するね。」と言い残して逝ったが、ぼくにとって、母のこの御心を素直に受け入れる態度こそ母の残してくれた大切な形見であり、これはキリストを信じる人に与えられる特権というか、すばらしい祝福である。母の歌… 

行末を 神に任ねて 一日を 

つとめてゆかん 力ある限り。 

は、全くこのような母の信仰心を典型的に表わしたものと言えよう。

しかし、御心を信じるのは、不運のときだけではない。自分の努力が実って、何かに成功したとしても、それも神の御心である。何事も自分の力によると傲慢であってはいけない。すべてのことが、自分の努力プラス神様の御心にかなったものというふうに信じると、絶えず神には感謝して生活しなくてはいけない。なんでも自分の力にだけ頼ることをせずに御心に従った生活ができるというのは、エゴを強調し、負けず嫌いの氾濫する社会で生きるぼくたちになんとも言えない心の安らぎを与えてくれる。母も、この世を去って行くときに、ぼくたちだけでなく、皆に「ありがとう、ありがとう」の感謝の言葉を繰り返した。鴎外の「なんだつまらない」と、母の「ありがとう」とは非常に大きな違いがあるように思われる。母の墓石には、父の提案に従い、「感謝」の一言が記されてある。母の看病と見舞に来てくれていた、仙台時代からのお友達の斎藤兄弟姉妹の二女由貴ちゃんが『看護』という雑誌の中にこの頃の母の感謝の気持ちを書いてくれたので、それを引用させてもらう。

1994年、つまりおととしの1219日に結婚しましてから、昨年の1219日でまる1年を迎えました。私達は今、旦那様はアメリカの大学生、そして私は仕事で日本を離れられないという事情の為に別々に暮らしていますので、少し普通の新婚さんとは違いましたが、それでも昨年夏から今年のはじめにかけて私が仕事を離れ旦那様の大学の英語学校に留学をして、しばらくの間ですが共に過ごすことができました。

その時、ちょくちょくお邪魔してお世話になったお家に、渡部という家族がありました。ご主人はその大学の教授で、同居しているその御両親は私の父が幼少の頃からお世話になった、つまり何十年も前から家族ぐるみでおつきあいをさせていただいているご家族でした。そこのおばあ様が、すい臓ガンにかかっている、ということが私の耳に届いたのは春頃でしたが、私がアメリカに行く頃にはもう、殆ど床にふせっていると聞いたので、渡米してまず一番にしたのは彼女のお見舞でした。健康な頃は“毒舌おばあちゃん”として有名で、はっきりと歯に衣きせぬ物言いで周囲の人間を笑わせていた彼女が、ベッドの上でしんなりと、もうなんというかぺしゃんこな迄にやせてそこに横たわっていました。私は言葉を失い、けれど不自然につっ立っていてはなお悪いぐらいの機転だけはきいたのか、そばに寄り、『如何ですか』と声をかけました。手を握るとその手首や指の細さたるや、こちらがふるえてしまう程でした。名前を今思い出せませんが、ある詩人が自作の詩の中で、病んだ母を腕に抱き上げ、そのあまりの軽さがしたたりのようにしみてゆく、と詩っていましたが、まさにそんな感じでした。とっさに、何か元気なことを言わなければと口を開きかけた時、ほんの瞬間、先手をうって彼女が私に言葉をかけてくれました。

      『こちらでご主人と一緒に暮らせてよかったですね』『学校なんて久しぶりでしょ。沢山楽しんで、よく勉強できたらいいわね』『旦那さんと、いろいろ楽しいことできたらいい思い出になりますよ』『日本での仕事はどうでしたか』

彼女はまるで、私達夫婦のカウンセラーのように、私達に質問し、話を聴き、はげまし、悟してくれたのです。それも、最も端的で、かつ有益な方法で、でした。帰る頃にはすっかり、お見舞をされたような気持ちになっていました。その上彼女は、すい臓を患う人特有の腰の激痛に悩まされていましたが、私達がお見舞をしたいという気持ちがもてるように、私達が彼女のためにできること、をさりげなくさせてくれ、私達の気持ちを軽くさせてくれさえしたのです。そしてそれらは全て、本当に自然に、何気なくなされたのでした。私は、旦那様となるべく毎週お見舞しようねと話し合いました。彼女が、ガンを宣告された時点で命の期限をいいわたされていたことを私達は知っていました。

夏が終わり秋が訪れ、やがて枯葉がみな落ちる頃になると、おばあちゃんは日中でも眠る時間が長くなり、面会ができなかったり、又電話をして様子を確かめてからお宅まですっとんでいく、というような状態に変わってきました。彼女の声や様子が、だんだん静かになってきていました。まるで、枯れかけた白い美しいチューリップの花びらがゆっくりと透きとおってゆく様をみているようでした。そうして年があけ、私が日本へ戻る日の4日程前、多分今日がこの滞在の最後のお見舞になるだろうと心に思いながらおばあちゃんを訪ねました。『日本に帰ります』と言うと、彼女は黄色く染まった手をいっしょうけんめい握り返し、「ありがとう、本当にありがとう」と言いました。

私は泣きながら、「いいえ、お見舞させて頂いて、本当にありがとうございました。本当に沢山学んだし、何より側にいることが私は本当に嬉しかったです。私こそありがとうございました」と言いました。私はこの時、確かに今私達はこの世とその先、永遠にわたっての言葉をかわしあっているのだと強く思いました。そして最後に、「それじゃ、又」と言って私は渡部家をあとにしました。

そしてその2週間後、彼女は亡くなられました。けれど私は今、必ず又彼女と逢えることを確信しています。

                         斎藤由貴(看護19964月号1617ページ)

7 信仰 と 逆境

御心にそって生活するということは、宗教を信じている人の祈りはなんでも聞かれるというのではない。キリスト教を信じて祈ればいつでも良いことだけが起こるのかというとそんなことは決してない。キリストのたとえ話の一つに岩の上に家を建てた人と砂地に家を建てた人の話がある。「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。またわたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。その倒れ方はひどいのである。」(マタイによる福音書7章2427節)

神は全く公平なお方である。神の御心をなそうとなすまいと、皆一様に雨が降る。善い行いをしてようと、悪い行いをしてようと、キリスト教徒であろうと、何々教徒であろうと同じように雨が降り、逆境がやってくる。違いは、信じてそれを行っている人は、岩の上に家を建てる賢い人である。うろたえたり、ふためいたり、不必要な心配をせずに、苦しみを切り抜けていくのである。

この教会では、苦しみには二通りあると教えている。一つは、神の思し召しの、幸せの道に沿わない生活からくる苦しみ。これは、自分の弱さからくるものだが、これも、心から誠実に悔い改める者には、赦しがあると信じている。もう一つの逆境は、人間が成長するために与えられるものである。これは、自分達にはどうすることもできないことであり、ただ、御心だと耐えるほかない。全力を尽くしたあとは、じっと耐えることにより、キリストが私達のために十字架にかけられた苦しみのほんの一部でも味わえ、キリストに少しでも近寄ることができると信じている。昔、山本有三の「生きとし生けるもの」という本の中で、塊炭という石炭で一番種類のいい固い石炭は土の一番深いところで一番重い圧力を受けてできるというのを読んだことがある。仙台に住んでいたときに、亜炭という安いもろい石炭を使って風呂を焚いていたのでこの話がまだ頭に残っているのだが、人間もこのような逆境の積み重ねを通して塊炭のような人が出来ていくのだろう。海の世界でも、アコヤ貝の内側に砂などで傷がつくと、それを直そうとして美しい真珠ができるように、人間も逆境を乗り越えてきれいな真珠のような性格を作り上げていくのではなかろうか。