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日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史

アンデセン伝道部会長ーII

 

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日出づる国と共により

 第六章  アンダーセンの歴史記録

森駒枝に送られた口述史 

II-第二次世界大戦沖縄 

帰国後、二ヶ月は家で過ごした。そして陸軍に入隊。歩兵連隊しか空きがなかった。基本的な訓練をカリフォルニア州のロバートキャンプ場で、陸海作戦訓練は、ハワイの森林で受けた。私の伝道中の同僚、デビッド・ウィークス兄弟と一緒だった。私たちは、親交を深め兄弟愛の絆で結ばれ、互いに日本人に尊敬の念を抱いていた。ところが太平洋戦争に巻き込まれ、日本軍と戦うことになった。私たちは、もし、日本語が片言でも話せたら、日本人を援助できるに違いないと思った。ハワイ伝道の経験があったので、日本語の発音は問題ではなかった。サイパンに行く船の中で、軍部から配られた日本語のパンフレットを長時間勉強し、「降参」、「手を上に挙げて、出て来なさい」、「英語が話せますか」、「心配しないでください」などの語句を覚えた。 

私は、友人のウィークス兄弟と別々の隊に配置されたので失望した。だが、ユタ州アメリカンフォーク出身のチャップマン兄弟が、私の隊に配属されて来た。私たちは司令官に、一緒に働かせてくださいとお願いした。「彼と同僚になるのには、一つの方法しかなく、戦場の前線で、自動式ライフルを担ぐ役と弾薬を運ぶ仕事なら、一緒にできる」と言われた。戦場の前線で戦うことは、一番危険であり少し考えたが、祈りの結果二人でその仕事を引き受けることにした。私がライフルで、彼は弾薬を運ぶ仕事を希望した。 

 私たちが所属していた第九十六部隊は、沖縄の首里戦場で戦った。目の前の二百フィートくらい高い丘に向けて、休みなく一日中、襲撃した。私たちの部隊はどの部隊よりも先頭に立ち進まなければならなかった。部隊の指揮官が私の前の最前線で、私は彼の後ろの二列目で行動した。私たちは丘を降りてきて敵側の丘を攻撃するために、百ヤード位のさとうきび畑を渡って、他の場所に移った。弾が四方八方から雨が降るように飛んできて、私たちの走っている周囲の地面に飛び散っていく。私は、司令官よりも重い荷物を担いでいたが、彼を追い抜いて反対側に着いた。私たちの位置から、戦場の全景を見渡すことができた。多くの敵と見方の兵士たちが、目の前で息絶え倒れている。私は二回負傷した。一回目は数日、屋外病院で治療を受けた。その次は、軽傷で部隊の衛生兵の治療で治った。

戦場で、私は幾度となく常に主に見守られていることを感じた。私の同僚のチャップマン兄弟について触れておきたい。もしかしたら、私も彼と共に戦場で倒れて二度と帰らぬ兵士になったかも知れないのだ。私が、負傷して屋外病院で治療を受けていた数日の間に、彼は私のライフルを担ぐ役目を果たしていた。私が前線部隊の戦場に戻ってみると、チャップマン兄弟は丘の側に息絶えて横たわっていた。その晩は一睡もできなかった。二日経って司令官に、私たちの周りを煙の幕で包囲して欲しいと頼んだ。その間に数人の兵士たちと、彼の遺体を運んできた係りの方に、丁寧に処置をしてくださるようにとお願いした。 

沖縄で覚えた日本語を使って、役立った話が幾つかある。私は、いつも防空壕から沖縄の避難民たちを外へ呼び出し、捕虜たちを安全に収容所に送って、保護する役もまかせられていた。私は、沖縄の避難民に貢献をしたことで、軍部から銅メダルを受賞した。 

 戦争の終わる前日、誰か隠れている気配のする防空壕があるからと、呼ばれて行った。もし、隠れているのが敵国の兵士だとしたら、自分の身を守らなければならない。防空壕の側に立って、「降参、手を上げて出てきなさい、心配しないでよい、安心して」と、日本語で呼びかけた。何の返事もなかったので、穴の入り口に催涙弾を投げた。それでも、人の気配はなかった。私たちが、そこから立ち去ろうとしたその時、入り口に八、九歳くらいの少女が三、四歳くらいの幼い弟の手を引いて出てきた。催涙弾のガスで目は充血していた。大声で泣きながら、「おばあちゃん、おばあちゃん」と防空壕を指差した。私たちは、その子の祖母が防空壕にいることを知り、穴の中を覗き込んだ。歩けなくなった老婆が、自分の体を穴の入り口まで引き()ってきていた。私たちは彼女を助けて外に出した。女の子に「あなたは、私の日本語がわかりますか」と聞くと、彼女は「はい、わかります」と答えた。それは、私が日本語で日本人と交わした最初の会話だった。

私は、配給品の飴玉を出して、子供たちに渡した。少女は、それを食べないで、私の手に押し返そうとした。たぶん毒だと思って食べないのだろうと思ったので、自分の口の中に入れて食べて見せた。それを見て二人の子供も安心して食べ始めた。子供たちの私に対する警戒心はなくなった。少女は私の手を握り、片手で弟の手をつないで、一緒に収容所に向かう。弱り果てた老婆を二人の兵士がおぶって歩いた。途中、浅い小さな谷間を通りかかった時、少女が「水、水」と、声を張り上げて叫んだ。私は彼女に水を飲ませるために立ち止まった。少女はそこに生えていた大きな葉っぱを取って、コップを作り水を汲んだ。その水を「おばあちゃん、水よ、飲んで」と言って、祖母に飲ませた。また、葉っぱのコップで水を汲む。今度は、幼い弟に水を飲ませた。三度目の水を汲んだ。そして最後に、少女が飲んだのだ。見渡す限り荒れ果てた戦場での渇きを潤す光景だった。 

老婆と幼い子供たちの捕虜を無事に収容所に送って、二人の兵士と共に足も軽やかに部隊に向かった。ところが、老婆をおぶっていた二人が、体中をボソボソ()き始めた。「あなたには、(のみ)が移らなかったが、私たちは、体中が蚤だらけになってしまい、(かゆ)くてたまらない」とブツブツ呟いた。 

 沖縄の戦場で終戦前に戦ったあの日々は、本当にただ悪夢だったとしか言えない。でも、その経験を通して学び悟ったことがある。私は、常に主に見守られていたと強く感じることができた。自由の国アメリカ人として、この世に生を受けたことを感謝した。また、日本人に対する尊敬と慈愛の心を深める機会でもあった。 

結婚 

沖縄から帰ってきて、私は大学に戻った。一九四八年、卒業前の初春に私は、アリゾナ出身で大学一年生のペギーに出会い、その年の夏に私たちは結婚した。同日に私の妹も彼の兄と結婚した。

 私は、一年間の大学院コースを終了した後、ユタ州プロボ市ディクソン中学で、一九五一年の夏まで二年間教えた。当時は朝鮮戦争の真只中で、教会の青年たちのほとんどが戦地に出ていた。伝道に出る宣教師が不足していた時代だった。

 私はワードの書記をしていた。一九五一年八月十五日、ユタ州プロボのシャーロン・ステークのテイラーステーク会長が、各ワードの七十人長老定員会から一人の宣教師を、伝道に出すように教会本部から要請されていると述べた。当時千人の宣教師を必要としていた。私は、家に帰って妻のペギーにそのことを話した。本気ではなかった。すると「それは、素晴らしい経験になるわね」と答え、とても熱心に伝道に行くことを勧めてくれたのだ。私のワードには、七十人長老定員会に十人の長老たちがいた。彼らはそれぞれ三人以上の子持ちであり、私には、一人の子供しかいなかった。ワードのビショップが七十人長老定員会の集会に来られて、「あなた方のうちの一人に伝道に出てもらいたいが、誰かボランティアで、伝道に行けますか」と尋ねた。その後、私はビショップリックで「ビショップ、七十人長老定員会の中で誰も伝道に出る人がいないのなら、私が行きます」と伝えた。