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メリディアン 日本語 |
日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史 日出づる国と共に
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掲載四部 グラント長老の列車の旅 日本での本格的な伝道活動を開始するに先立ち、ヒーバー・J・グラントは法的な手続きを完了させることにした。彼の日記によれば、宣教師たちはアメリカの総領事ベロウズ氏に相談し、氏の助言の下、教会の正式名称や伝道の活動方針などを記載した書類を提出し、正式に伝道の許可を受けることになった。また今後の伝道活動への影響力や展開を先見し、日本人の実業家やアメリカ人の有力者からの誘いに応じて、ともに日本国内を汽車で旅することとなった。 「世紀を越えて」に興味深い記事がある。 「その後、ヒーバー・J・グラントは、ウォルター・S・ストーンと佐藤という名が記録されている二人に汽車での旅に誘われた。その旅程は約一、四〇〇キロにも及ぶものであった。グラントは、汽車旅行によって日本で著名なアメリカ人や実業家と懇意になれるなら、将来の教会の発展にも利益をもたらすであろうと考え、彼らとの旅行に同行することにした。九月六日の夜行列車に乗車して始まったこの旅はグラントにとって、二人の実業家と親しくなるのみならず、日本の各地の状況をも知るという貴重な経験をもたらしたのであった。グラントの日記には旅の様子が次のように記されている。 『帝国列車一九〇一年九月七日、 列車の中で今朝六時ごろ目が覚めて、車窓から外を眺めると、幾度となく目にする景色の中で、最も素敵な安らぐ田舎の景色が目に飛び込んできた。緑に見えるのはほとんど稲の田んぼであり、よく実っている。緑の山と丘も見える。幾つかの山はだいぶ高い。もちろんソルトレーク近郊のワサッチ山脈ほどの高さではないが、我々は海抜数フィートのところを走っているので幾つかの山々は相当高く見える。その山々は頂上まで、潅木や樹木に覆われていて、大変美しい。午前七時、列車を乗り換えるとき、(琵琶)湖と山々の頂が遠くに見えた。私はまったくユタ湖のほとりを旅しているような気分になった。 最初のトンネルを抜けると、遠くに敦賀湾と日本海が見えてきた。この湾は半円形で、絵のように美しい村々が磯辺に点在している。村の背景には斜面に棚田が広がっていて、小さな峡谷はまさに美しく、実際私が今までに見ることができた最も美しい風景の一つだ。十か十二の短いトンネルを抜ける度に、私たちは違う風景を見ることができた。どれほど私が、ジョン・ヘーフェン(一八五六〜一九一〇、絵画宣教師として派遣されてパリに学び、神殿の壁画を描いた画家)がそこにいて、私が見たこの美しい景色を描きとめてくれたらと願ったことか。 私たちはたくさんのトンネルをくぐったが、米原と敦賀の間には特に長いトンネルがあり、その長さは四分の三マイル(約一、二〇〇メートル)もある。その名を柳ヶ瀬トンネルという。列車は一、五〇〇から二〇〇〇フィート(一フィートは約三〇センチ)の高さまで登って走ったが、下ってくる時に小さく区画された田んぼが見えた。この国では土地の大きさは『坪』という六×六フィートの単位で計るのだ、とストーン氏が教えてくれた。原野なら、我々の通貨で一坪一セント半から四分の三セントで取り引きされるという。 金沢駅から旅館に行く時はどしゃ降りの雨であったが、人力車には幌ををかぶせて走るので我々はほんの少ししか濡れなかった。旅館は非常に清潔で、入り口の扉のところで靴を脱ぐ習慣があることを知った(ヒーバー・J・グラントは、日本に来てからもホテルで西洋式の生活をしていたからである)。旅館での食事は日本式に床に座って食べたのだが、足が痺れて、食事が終わるまでに何度も立ち上がらなければならなかった。 ……ベッドは通常の日本式で床に置く。大きさはシングルサイズである。それは我々がキルトと呼ぶような『ふとん』というものでできており、とても厚く、二、三枚を体の下に敷き、その上にシーツのような薄い布をかぶせる。それから大きなキルトを上にかける。そして小さくて、丸い固いまくらが与えられるその床というのは三フィート×六フィートのマット(これは畳のことらしい)で全部覆われている』。 日記からも推察できるように、一九〇一年(明治三十四年)当時の日本の風俗習慣は、ヒーバー・J・グラントにとって、珍しく、驚くようなものばかりであった。 『九月九日、人力車で海沿いを一時間程で巡ったのはまったくもって楽しかった。ただ残念だったのは、具合が悪かったことと、同僚や愛する家族と楽しみをともにできなかったことだ』。 『九月十一日、(新潟に着き)縁日を訪れた。そのうえ日本の仏式の葬儀に立ち会った(この珍しい行列は事細かに日記に描写されている)』。 ヒーバー・J・グラントは、各地での経験を描写しながら長野、軽井沢、足利などを回って、九月十五日の昼頃に東京に到着した。一行は東京で昼食をとってから、汽車を乗り換えて、午後二時三十五分に横浜に帰り着いた。その旅は九日間に及び、最高級のホテルや日本式の珍しい旅館に、泊まるものであった。しかし、グラントにとっては予想以上に費用がかからなかったらしく、日記の中で「総費用は八十円すなわち四十ドルだけしかかからなかった。こんなに安いとは信じられない」と記している。『日本式の宿に宿泊した時はストーン氏が缶詰をたくさん持ってきていたので、食べ物にも不自由せず、宿泊料金も安く済んだ』とも記している」。 最初思うように進展しなかった伝道活動の中にあっても、宣教師たちは機会を見つけては日本の文化を理解するように努めた。家族と共に日本に戻ってから家族を伴った日光への旅行は、宣教師たちの意気を高めると共に、家族との安らぎをもたらす貴重な機会となった。幸運なことに、日本の物価の安さによって宣教師たちの生活は、それほど苦しいものではなかったようだ。日光に向かう街道では、グラント長老らは当時一般的な乗り物であった人力車を使っている。日光で投宿した宿は、一八七三年創業の日本最古の洋式リゾートホテル日光金谷ホテルと思われる。 一八七八年、イギリスの旅行家イザベラ・バードが来日している。その後も日本に来て東北、北海道まで旅行し、その思い出を旅行記に留めている。 「私達は三等車で旅行した。……(中略)……客車の仕切りは肩の高さしかなくて、たちまち最も貧しい日本人で満員になった。三時間の旅であったが、他人や私達に対する人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。それは美しいものであった。とても礼儀正しくしかも親切。イギリスの大きな港町で多分、目にするふるまいと較べてなんという違いだろう。さらに日本人は,アメリカ人と同様,自分やまわりの人への気配りから、清潔で見苦しくない服装で旅行している。老人や盲人に対する日本人の気配りもこの旅で見聞した。私たちの最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さに及ばない」。 ちなみに日本の鉄道は一八七二年に、新橋駅から開通し、上野、青森間(現東北本線)は一八九一年全通している。 グラント長老の汽車旅行、米原、敦賀湾は最も歴史ある区間で、現在JR北陸本線になって「サンダーバード」など華やかな特急列車が走る幹線になっている。北陸本線は、明治二年に駐日英国行使パークスが提案した計画案に基づき明治十七年に全通している。 ヒーバー・J・グラント長老よりも十年以上も前に汽車の旅をしているバードだが、当時の日本人のマナーの良さに関心している。またイザベラ・バードは、日本の美しさを気に入って何度も日本を訪れている。江戸時代や明治時代初期に訪れた外国人は、一様に日本の美しさと美術・芸術に魅せられ、日本は、芸術の先進国と考える人も多くいた。一八七八年のパリ万博によって、琳派の作品、浮世絵、水墨画、陶磁器など大流行し、日本は美の理想郷とされた。 グラント長老も、「実際私が見ることができた最も美しい風景の一つだ」。神殿の壁画を描くジョン・ヘーフェンに「私が見たこの美しい景色を描きとめてくれたら」と願っている。 また当時十二使徒のデビット・O・マッケイは、一九二〇年に来日し旅で見た日本の美しさに感嘆している。 「私は東京から甲府へ旅をしたときのことを思い出します。畑は長方型や正方形、円形に小さく区切られ丘の斜面には緑色の稲や麦が植えてありました。また、刈り取られた稲がところどころに、きちんと穂をそろえて円錐形にたばねられています。古いかやぶきの家が立ち並ぶ田舎の光景は、まるで絵のような美しさでした。・・・・私たちは四時間ずっと、山々の景色を見ながら旅しましたが、この田舎の風景は、うっとりするような山々の景色を一層美しいものとしていました。・・・・深い峡谷には激しい勢いで川が流れ現在進取の気性に富む日本人は、その力を水力発電に利用しています。山あいの峡谷、松林におおわれた山頂清く優雅な滝、そして遠くには、かの有名な富士山が周囲の連山を従えてそびえ立ち、雪におおわれたその雄大な姿を見せていました。「日光を見ぬうちは結構と言うな」。これは日本でよく言われる言葉ですが、華麗な美と雄大さに満ちた山々の景色、精巧な彫刻と絵画の技術、そして過去の神秘的な崇拝がこれほど美しく織りなされた場所は、ほかに思い当たりません。(「幸福な人生の鍵」)」。
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