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日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史

日出づる国と共に

 

 

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掲載五部

     最初のバプテスマと二期宣教師たち

 一九〇二年(明治三十五年)三月八日、日本で最初のバプテスマが東京の大森海岸で行われた。神道の宮司中澤(はじめ)だった。

 二人目は二日後の三月十日、グラント長老が四月総大会に帰国前日のことであった。当時、宣教師たちは築地のメトロポールホテルに住んでいた。グラント長老は帰国後、言葉の問題を(かんが)み大管長に要請し、六人の宣教師と共に日本へ旅立った。また妻や娘も同行した。妻のオーガスタ、娘のメアリー、エラスタス・ジャービス、ジョン・W・ストーカー、フレッド・A・ケイン、スタンフォード・W・ヘッジス、ジョセフF・フェザーストーンにフェザーストーン夫人のマリーと共に日本に戻ってきたのだ。

 グラント長老は「この地に戻れたことを幸せに感じている」と日記に書いている。

 ルイス・A・ケルチは入れ替わりに帰国した。若い宣教師たちの日本語の上達は早かった。増員された宣教師たちと日本の内地に派遣して伝道所を開設した。

 一九〇三年八月二十三日、グラント長老は伝道部会長から解任され、ホレス・S・エンサインが伝道部会長として管理の職を引き継いだ。グラント家族は九月十一日に帰国の途に就いた。

     初めての日本語版「モルモン書」翻訳成る

 一九〇四年一月十一日月曜日の午後、東京四谷霞岡町十六番地にある伝道本部で、神権会第二部の会が開かれた。ホレス・S・エンサイン伝道部会長管理の下、伝道部の宣教師全員が出席した。この集会の議題では、新しいパンフレットを準備する必要性について話し合われた。その後エンサイン伝道部会長は、モルモン書の翻訳を始める時が来たと述べる。宣教師全員にまず余暇(よか)を使い、モルモン書の望む箇所を選んで翻訳し、それを大事に保存しておくようにと言われた。後日宣教師たちがそれぞれ翻訳した部分を持ち寄り、比較し、改訂して最終的に全体の翻訳を完成すると話された。

 私はこれまで数ヶ月間、たびたび断食をして、主がモルモン書を翻訳する道を備え、その時期を早めてくださるようにとお祈りをしてきた。エンサイン伝道部会長の言葉を聞いた時に、涙がこぼれる程うれしく思った。私は直ぐに、できるだけ時間を作り翻訳の仕事をすることを決心した。毎週日曜日に東京にいる必要があったため、土曜日の夜には伝道本部に帰り、次の月曜日にはまた伝道地へ戻った。その夜「まきのや旅館」の奥の六畳間で、ひとり畳の上の座布団に胡座(あぐら)をかき、座卓を前にしてモルモン書を初めて翻訳してみることにした。最初のページから始めるのが正しいやり方であると思い、まず表紙の最初から始めた。

 一九〇四年七月十六日土曜日、午前中東京の伝道本部でエンサイン伝道部会長管理の下に評議員会が開かれ、伝道部の宣教師全員が出席した。そこで一月以来宣教師たちが行なってきたモルモン経翻訳の最初の計画は、順調にいっていないことがわかる。そこでエンサイン伝道部会長は、翻訳のすべての責任を私に与え翻訳が完了するまで、あるいはこの仕事から解任されるまでは、翻訳を私の第一の義務とするように指示された。

 翌日、私が床に就く前に、エンサイン伝道部会長は私の頭に手を置き、私を翻訳の業のため按手任命した。

 その頃私の伝道地はすでに千葉市から東京に移っていたため、伝道本部に住んでいた。私は翻訳の仕事を精力的に始め、日本語には弱い点もあったが、仕事は順調に進んだ。一月十八日以来わずか数ページを翻訳したに過ぎなかったが、これが実質的な翻訳の真の始まりであった。すでに翻訳を終えていた数ページも、もう一度やり直したからである。やがてエンサイン伝道部会長が解任された。その後、私が引き継ぐことになり、伝道部会長としての責任を果たさなければならなくなった。そのため翻訳の仕事がたびたび中断されることになった。ある時は十五日、二十日、三十日、あるいはもっと長い間、私は翻訳から遠ざかることもあった。私が伝道部を引き継いだのは一九〇五年七月四日のことだった。

 私は漢字を使うことにはあまり精通していなかったので、最初の原稿をローマ字で書く方が時間の節約になると思った。その後これを漢字に直す時には、慎重によく読み返しをして、訂正が必要と思われる箇所を直した。この書き替えには大変な時間がかかった。伝道部会長になってからは、私の使える時間のすべてを翻訳に費やすことが必要となってきた。一九〇五年七日三十日、フレッド・A・ケイン長老を翻訳の補佐に召した。彼に私の翻訳したものをローマ字から漢字に直してもらうことにした。私たちは彼が書き直したものをまた注意深く読み返し原文と照らし合わせた。

 一九〇六年三月二十一日午前九時三十分、翻訳の仕事を本格的に始めてからちょうど一年と九ヶ月目に、私は翻訳を終えた。一方ケイン長老は、五月十二日に原稿の書き替えを終えた。五月三十日には写しの校正が完成した。

 一九〇六年三月二十一日から五月十四日まで、私は北海道に行って札幌の伝道地を訪問し、仙台の伝道地へも(おもむ)いた。しかしその間も絶えず翻訳の進行状況を思い出し、また将来のことも計画していた。翻訳の仕事が私に任されたのは、私が日本へ来てからまだ三年足らずの時だった。最初の翻訳が欠点の多く不完全であったことは、容易に想像がつくに違いない。それから一年と九ヶ月の間、私は翻訳のために必要な研究をすることによって、私の日本語も大きな進歩を遂げた。翻訳の最初の部分は見返すと後半に比べ劣るものだった。私は直ぐさま改訳に取り掛かる決意をして、一九〇六年五月十四日の夜から開始した。

 改訂作業は一九〇七年十二月六日まで、ほとんど休みなく続いた。これに要した時間と労力を考えると、改訳と言うよりはむしろまったく新しい翻訳と言った方が適切だった。原稿にざっと目を通してみても、最初の翻訳はほとんど残っていないことがわかる。改訳は次の要領で行なった。

 まず私が翻訳された文章を読み、日本語の見地からこれを研究。そして必要と思われる点を全部変更した後、英語の原文と比較してみた。変更したために元の意味、原文から外れてしまわなかったかどうかを調べた。このように比較することによって、さらに変更しなければならないこともしばしばあった。

 その後再び文章を読み、それが滑らかな日本語であり、文章が流れているかを調べた。こうして私の仕事は終わり、次の人に回して、訂正された通りに書き写されていった。この写し書きをするために書記として手伝ってくれたのは、千葉安兵衛兄弟と森八郎氏(彼はこの仕事を手伝っている間の一九〇七年十一月二十五日、私によりバプテスマを受けた)、そして桜庭武四郎氏(当時非教会員だったが、一九一〇年にバプテスマを受けた)だった。

 すべての書き写しが終わったのは、一九〇八年(明治四十一年)一月二十七日。全体を通しケイン長老と私は入念に読み直し校正した。

 このように清書を行なった理由は、最初の翻訳を何度も訂正し変更したために、原稿がほとんど読めない状態になってしまったからだった。これを日本人の学者に読んで最終批評をしてもらうつもりだった。

 この改訳をするに当たって、もうひとつの非常に重要なことがある。それはケイン長老の行なったことだった。一九〇六年六月六日水曜日、彼は翻訳したものを入念に読み直して、これを英語の原文と比較する仕事に従事した。このように読み直し比較することによって、多くの貴重な改善点が指摘された。私が無意識のうちに省略してしまった部分を発見することができた。このように良い成果を得られたことで、この過程が必要であったことが実証された。ケイン長老は一九〇八年一月三十一日にこの仕事を終えた。

 一九〇八年三月五日、甲府の長老たちを訪問している間に、私は彼の提案したことについてよく考えてみた。

翻訳に関し、今や日本の学者による最後の批評を受ける準備が整った。人々から受け入れられ、敬意をもって真剣に読んでもらえるような翻訳文を書くために、私の日本語はあまりにも不完全だったので、このような批評を受けることが絶対に必要だった。