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メリディアン 日本語 |
日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史 日出づる国と共に
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掲載六部 一九〇六年十一月、私はこの仕事を平井金三氏に依頼した。これまでの過去の交流を通じ、誠意と才能を持った人物であるとわかっていたからだった。しかしそれから約一ヶ月後、平井氏からこれを辞退する旨の郵便が送られてきた。そこでこの件は六ヶ月の間保留になってしまった。しかし私は絶えずこの件で頭を悩ませていた。私が知っている学識があって信頼できる知人の数は限られていたので、非常に残念に思っていた。一九〇七年六月五日、私は再び平井氏に依頼した。彼からはこの仕事はできない旨のはっきりとした断わりがきた。その後、平井氏を通して神戸市の野口氏を紹介される。私は神戸へ行き、その途中線路が崩壊し大変な目に遭った。神戸で野口氏に会ったが、人格的に良い印象を受けず、仕事の契約はしなかった。東京に帰り、今度は仙台へ行った。そこで河北新報(編集注…当時東北一の新聞社)の編集者鈴木愿太氏に会う。彼は仙台で働く長老たちに好意的な人だった。鈴木氏からは良い人だという印象を受けたが、新聞という仕事の性質上、彼がモルモン書の批評にどれだけの時間と思考を費やすことができるかは疑問だった。そこで、はっきりとした契約をしないまま東京に戻った。野口氏や鈴木氏は私の要望にこたえ、彼らの仕事の見本としてニーファイ第一書第一章の翻訳訂正を提出してくれた。それらを見ると、驚いたことにふたりとも文語体に変えてあった。彼らは変更した理由として、私の口語体の翻訳文に何とか力と威厳をもたせようと努力してみたがうまくいかず、文体を文語体に変えたとのことだった。この変更は文体を最初から終わりまで全部変えなければならないという深刻な問題を投げ掛けていた。この件に関して多くの協議を持ち、祈り、調査し、何度も考察した末、最終的には文語体に変更することに決定した。 この決定によって過去三年間の私の仕事は反故となり、新たに翻訳をやり直さなければならないように思えたが、幸いなことにそうではなかった。私の翻訳は「本当の口語体よりも文語体に近い」という評価を受けた。そのことにより純粋な文語体に直すことは、容易であるということを聞かされたからである。文語体は、力強く簡潔であり、文法上の規則が口語体よりも確定しているので、多くの文筆家が書くことができるとわかった。 私は文語体に関して、特別な勉強をしたわけではなかったので、文体を直すためには、私の能力では不十分であると感じていた。そこで有能な日本人にこの仕事を託すことにした。 この仕事をできる人を東京で探した。私は大学教授の平井金三氏(言語学者)の兄弟である早稲田大学講師の平井廣五郎氏を選んだ。そして一九〇七年九月二日に伝道本部で、平井廣五郎氏とこの仕事の契約をした。 それから半年後、平井氏に不名誉な事件が起き、仕事に遅れが生じたために、彼との契約を解消した。私は彼が所持していた翻訳に関するすべての書籍や文書を受け取った。契約を解消する際の証人としてケイン長老が同行した。この出来事で翻訳が多少なりとも遅れてしまったことは、大変悲しいことだった。しかし幸いだったのは、人間の不義なる行為のために尊い神聖な業である翻訳が破壊されることはなかった。人が過失を犯しても、主はその御業を成し遂げることができるのである。この聖なる書物の翻訳は神の御業ゆえ神の祝福を受けて成功し、迅速に達成されることであろう。 平井廣五郎氏の契約解消までに、彼はニーファイ第三書第三章の終わりまでの校閲と訂正を終えていた。また周到に注意深く読み直しもしていた。平井廣五郎氏についてひとつだけ言っておかなければならないことがある。それは私が知っている日本人の中で、平井氏ほど一度に長い時間机に向かっている人を見たことがない。だからこそ平井氏はこのような短期間に、大量の仕事をすることができた。 平井氏が最後まで完遂することができなくなったため、私は代わりの資格ある人物を探す必要が出てきた。できれば日本で最高と言われる人々の中から、選びたいと思っていたからである。 数年前賛美歌を準備するとき助けていただいた友人を通して、早稲田大学の文学部長で有名な作家でもある坪内逍遥氏への紹介状をいただいた。しかし彼には私の申し出を受けてもらえなかった。次にこれも著名な作家である夏目漱石氏にお会いしたが、他の仕事で忙しく「この仕事をする時間的余裕はない」との理由で辞退された。次に夏目氏から、東京帝国大学を卒業してまだ間もないが、すでに数冊の著書も出していて文学界ではなかなかの評判だという生田長江氏を推薦された。さっそく彼を訪ねると、「自分が適任者であると思われるならば、仕事を引き受けます」ということだった。彼の才能について私はまったく無知だった。そこで私は平井廣五郎氏が書き替えた原稿を二册渡し、読んだ後、必要と思う箇所を訂正してほしいと依頼した。私は生田氏について調査と検討を重ねた結果、彼に仕事をお願いすることにした。そして、一九〇八年七月十九日に彼と契約をした。 この度平井廣五郎氏の代わりに、生田長江氏がこの仕事を行なうことになったので、また最初からやり直す必要性が出てきた。このようにしなければ、最初の部分と後の部分が違う文体になる状況が、生じたからである。 生田氏は一九〇八年八月一日に仕事に取り掛かった。ニーファイ第二書第三章の終わりまでの書き替えや訂正はすべて鉛筆で行なわれた。これをまた私が読み返さなければならなかった。その過程で数多くの疑問が生じてきた。その全部を生田氏と話し合い、彼の答えに満足できなかった場合には、すべての疑問点が解消するまでほかの人々とも話し合った。私が納得できない変更や提案を消しゴムで消し、私が承認した変更をインクで書き込み、それを平井氏の使った原稿に書き写した。幸いなことに、生田氏は原稿にあまり数多くの変更を書き入れなかったので、再び清書する必要はなかった。 一九〇九年一月十三日、生田氏は平井氏が終えた所までの仕事を完成し、残りの部分を訂正する仕事を始めた。 六月十日十二時半、ちょうど昼食の知らせがあったとき、私は最後の参照聖句の翻訳を書き終えた。私はホッとして深くため息をついた。それは大きな仕事を完成した時に自然に出てくるため息だった。私の胸は言葉には言い表せない感謝と喜びに満ちた。しかし原稿を閉じてみるとまだあちらこちらに、小さな紙片が突き出ていた。それは未解決の箇所や、疑問点の未承認の箇所、鉛筆の書き込みがまだ消えていない箇所などに印を入れて添付した紙切れだった。そして七月二十四日、最後の紙切れがくず入れに投げ込まれた(それは奇しくも私が家を出発してから、ちょうど八年目の日に当たっていた)。こうして原稿は遂に完成した。
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