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日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史

日出づる国と共に

 

 

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掲載八部

  草創期の改宗者波木井波

 当時数少ない改宗者の中で、忘れられない、忘れてはならない改宗者がいる。日本の草創期(そうそうき)にあってダイヤモンドのように光り輝く心を持った人々である。波木井波は若い娘の時代に、ヒーバー・J・グラント長老たち宣教師の家を訪ね、料理や掃除の仕事を申し出た。メードとして雇われ、ここにも少し、そこにも少し宣教師の模範と教えにより福音に興味を持ち、また学び、一九〇三年十二月二十日二十三歳で改宗した。七十一年にわたる一生を献身的かつ忠実に生きた会員だった。

 八十四歳になってベッド生活になり、教会に行けなくなっても教会員には、鈴木なみ姉妹の名前で知られていた。彼女のバプテスマは最初の四人の宣教師が来日して二年目の女性第一号である。

 彼女は結婚し、六人の子供たちに恵まれた。ハワイの日本伝道部会長ヒルトン・A・ロバートソンが一九三七年に訪問した時に、奇蹟的出会いにより、子供二人がバプテスマを受けた。教会員の長女は困難な時代に遇って一九三五年に病死した。翌年息子は、中国に行き他界した。

 戦時中、彼女の家は爆弾を受け、完全に破壊された。その後小さな狭い家に、夫と二人の娘、二人の孫との生活を余儀なくされた。夫は戦地でマラリアに羅病し、家族を養うことができなかった。鈴木なみは、二人の子供の面倒を見なければならなかった。その困難な時期にあっても忠実な教会員として幾つもの教会の集会に遠い距離にも関わらず、出席した。わずかの収入から教会に什分の一や他の基金を献金した。彼女の献身的な意義ある人生に、主は確かに大いなる祝福を用意しておられる()

 鈴木なみ姉妹は、一九七四年五月二十六日に九十四歳の生涯を閉じた。横浜ワード部の葬儀の時に娘のなる子は、預かっていた母なみの最後の什分の一を携えて献金した。 

  鈴木なみ姉妹

  鈴木なみの思い出を、渡部正雄は(つづ)っている。

 「その後まもなく、ヒーバー・J・グラント長老を始め、四人の長老は横浜郊外の鷺山(さぎやま)で日本の地を献納され、その時の案内役を務めたのも彼女でした。一九〇三年(二十三歳)、日本で最初の姉妹として、今は明治神宮の境内となっている小川でバプテスマを受けられ、その時、グラント会長のお母さん(当時九十歳を越えておられました)からお祝の手紙をいただきました。それには、「あなたは全生涯を通じて、会員となったことを後悔することは、一度もないでしょう」という励ましの言葉が書かれてありました。晩年において、誠にそれが真実であったとよく証されました。

 私が横浜に移って来た時は、すでに身体の具合が悪く家に休んでいました。その少し前まで、日曜学校の教師をされていたそうです。私は、亡くなるまでの約十年間、ホーム・ティーチャーとして毎月訪問することができました。いつ行っても、喜んで迎えて下さいました。

 ときどき、聖餐のパンと水を持って訪ねると、「こうして寝たきりで何もできずに申し訳ない」と詫びるようにしておられました。それでも、長い信仰生活の証や、日本におけるモルモンの開拓時の話をして下さり、私たちはかえって励まされ、証を強めて帰って来るのです。

 「私たちは、姉妹の信仰に励まされ、証を強められています。多くの会員に、なみ姉妹の強い証を述べさせていただき、それによって、会員たちの信仰が強められています。これは本当に大きな助けです」と言うと、もったいないと言って、涙を流されます。その謙遜(けんそん)な態度と、どこまでも人々に仕えようとする奉仕の精神に強く胸を打たれました。

 亡くなる数日前に訪問した時、もう意識も朦朧(もうろう)としていたのか私に、「どなたですか」と聞かれました。起き上がれない身体を起して欲しいと言い、何とかしてもてなそうとされました。また、ビショップが伺った時は、もう口もきけず手も不自由な状態でしたが、その手をやっと動かして胸の中から財布を取り出しビショップに手渡しました。最後の什分の一でした。

 終始一貫した七十年の信仰生活を続けられ、一九七四年五月二十六日、偉大な使命を果たし九十四年の生涯を終えて昇天されました。お棺の中に安らかに眠り花に埋もれた顔は、幼児のように麗しく、また、天使のように美しく輝いていました。火葬場の釜からのお骨を拾っている時係員が、「これが額ですよ」と示された円いお骨が、真っ白に美しく光っていました。

ヨハネの黙示録二章一七節にある、「勝利を得る者には、…白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」の聖句が思い浮かびました。これぞなみ姉妹が主から与えられた白い石ではなかろうか。今、新しい名をもらって主のもとに安らかに休んでおられるのではなかろうかと、永遠の冥福を祈ったのでした。

 七十年の信仰生活を続けられましたが、残念ながら御主人の改宗にはいたりませんでした。そのため生前中に神殿結婚をすることは、ついにはできませんでした。

 不幸にも、長い病床生活の看護をしておられた元気な御主人が、なみ姉妹の亡くなられる前年、玄関先の道路で車にはねられ急死していたため、私は姉妹が亡くなられると、早速、系図を作成し提出しました。まもなくお二人は、ハワイ神殿においてめでたく永遠に結び固められ、さらには、第二次大戦で戦死された一人息子さんとも永遠に結び固められたのです」()