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メリディアン 日本語 |
日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史 日出づる国と共に
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掲載九部 奈知江常姉妹 エンサイン伝道部会長が一九〇五年七月八日に離任した時、幾らかの交代があり、新しいコックを雇うこととなった。伝道地で唯一の夫婦であった方も去ることになったので、年配の婦人が後釜となった。 奈知江常が雇われ、十四歳になる娘栄と共にミッション(伝道)ホームに引っ越してきた。奈知江は二十年来の聖公会の会員であったが、末日聖徒の集会に何度か出席し、求道生活を送っていた。そして、一九〇五年九月二十六日にバプテスマを受けた。彼女は翻訳の手伝いや求道者の手助けをし、集会で話し、また日曜学校の先生をも務めた。さらに最初のモルモン教会での葬儀を行う手伝いをした。奈知江姉妹の系図についてのその証は、日本人の先祖に対する大いなる心遣いと精神を象徴的に表したものであった。系図は彼女の愛して止まない業であり、記録を懸命に集めている。やがて生涯の夢の一つを実現することとなった、それはハワイへ行き、ライエにあるハワイ神殿で神殿の業にいそしむということであった。 教会の援助とロイド・O・アイビー伝道部会長の図いでハワイの新しいホームに旅立つことになったのである。ときどきは日本へは帰れるものの終生かの地で暮らすことになった。熱心に伝道することによって、彼女は溌溂とした教会のスピリットを持ち続け暗い日本にいる親族へも伝えた。 奈知江常はかがり火を高く掲げて、人々に先祖の心を子孫に向けさせ、子孫の心をその先祖に向けさせるとの聖句を思い出させた。また日本人に、愛の真価と先祖に対する関心について福音の持つ意義を指し示したのである。 奈知江姉妹のハワイ伝道 「日本における教会の空白期、奈知江常(一八五六年生れ)という日本人姉妹がハワイの教会で奉仕していました。奈知江姉妹は一九〇五年(明治三十八年)の夏、伝道本部の料理人として雇われ、その秋に日本における通算八番目の改宗者としてケイン長老よりバプテスマを受けました。彼女は長い間クリスチャンでしたが、モルモンの宣教師から幼児のバプテスマが必要ないことを聞き、以前から疑問視していた幼児洗礼の問題が彼女の心の中で初めて解決され、教会に改宗したのです。彼女は料理だけでなく、翻訳や伝道でも宣教師を助けましたが、証が強くなるにつれて系図と神殿の業に関心を持つようになりました。彼女はハワイ神殿に参入し、自分の家族と日本人聖徒たちのために神殿の儀式を行うことを夢見ながら、熱心に系図の探究を続けました。一九二三年(大正十二年)、夢がかなう日がきました。アイビー伝道部会長が帰還宣教師から募った援助により、奈知江姉妹は七十才の年齢でハワイに行くことになったのです。 『奈知江姉妹は、ハワイ神殿に日本で得た百以上の名前を提出し、必要な儀式を完了することができました。また、ハワイの人口の半分近くを占める日系人の間で、精力的に伝道活動を行いました。彼女の働きについて、アイビー伝道部会長はこう語っています。 ある意味では、「旧」伝道部は決して閉鎖されることなく、反対側に移されたのです。私たちは、神殿の業において生者が死者に仕えるという教義を教えます。疑いもなく、それは両方向に作用するものです。もし霊が地上に来る準備ができるのなら、死者が私たちのためにできることがあります。エリヤは人の心を両方向に向けさせるために来たのです。・・・・(奈知江姉妹)には伝道の御霊が満ち溢れていました。・・・・彼女より偉大な霊はかつてこの世に生を受けたことがありません。そして、日本人の間で行われる神殿の業は究極的に何百人もの人に救いをもたらし、昇る太陽は再び福音の光で輝くのです』。 奈知江姉妹に会った後、マッケイ長老は『確かに、イスラエルの血がここにある』と言ったと伝えられています。 奈知江姉妹は、日本の会員たちと接触を保っていました。一九二七年(昭和二年)七月に一時帰国したとき、奈知江姉妹は東京の会員たちから盛大な歓迎を受けました。歓迎会は奈良兄弟宅で開かれ、奈良兄弟に加え、高木兄弟、望月姉妹などが出席し、奈知江姉妹は『死者のバプテスマ』について話をしています。同年十一月にはハワイに帰る奈知江姉妹のために送別会が開かれ、彼女は『よみがえり』について話しました。これは奈良兄弟が管理長老に召される約一ヶ月前のことでした。このように奈知江姉妹は聖徒たちを教え、死者の名前を集めた後、再びハワイに渡っていったのです。 ハワイでの奈知江姉妹の働きは、日本語の日曜学校の設立という形で実を結びました。一九三四年春、帰国途中の藤原武夫長老もハワイに立ち寄り、奈知江姉妹が教える日曜学校クラスに三十名ほどの会員、求道者とともに出席しています。一九三五年、オアフにステークが組織されたとき、ヒーバー・J・グラント大管長とJ・ルーベン・クラーク管長は奈知江姉妹の日曜学校に強い印象を受け、エドワード・L・クリソルドステーク会長会第一顧問(後に、戦後初代の日本伝道部会長となる)の指揮の下に日系人支部を組織しました。彼女は死者に対しても、生者に対しても大いなる働きをしました。彼女の働きぶりについて、こう伝えられています。 『彼女は毎朝、何冊かの日本語のパンフレットと教会の本を風呂敷にくるんで出かけ、自分の民を熱心に訪問し、彼らに福音を宣べ伝えたのです』」。
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