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日本の教会員

今井一男兄弟

 

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2007年10月22日ユタで撮った写真

 

私は1930(昭和五)年二月二十日東京都世田谷区で生まれました。父は今井八男、母は山本キヌです。兄弟は男四人、女は五人です。妹一人は幼さい時になくなりました。父の仕事の関係で、江戸川区に移りました。 

中学校を卒業し就職して後定時制高校にいっているときに会社の用事で山手線の五反田から電車に乗った時、後から電車に乗って来た外国の方が一人で、わたしに話しかけてきました。1948年十二月でした。その人は末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師でポール・C・アンドラス長老で、戦争中はパイーロットで、今は宣教師です。どうぞ教会に来てくださいと伝えました。 

それで次の日曜日、高輪中学校の講堂で開いている集会に出席しましたが、その日はクリスマスでした。なぜクリスマスを祝うことは必要であるのか、不思議でした。それから毎週出席しました。その当時は日曜学校でけでした。神権会はなくて、聖餐会は毎月一回は伝道本部で開かれました。その時英語でパンと水を祝福しましたが、小さなパンと水を配るので、アメリカも戦争のために食料が少なくなってしまったのだと思いました。日曜学校が終わったあとは映画(西部劇)を見に行きました。 

そのあと教会は青山レーディズ学園に移りました。八月に宣教師からバプテスマの話があり、母に相談しましたら、自分がよいと思うなら受けなさいと。それで九月十七日にウエン・ハレン長老からバプテスマを受けました。按手礼はポール・C・アンドラス長老から受けました。 

でも戒め何も知りませんでした。例えば日曜学校の二分半の話の中である姉妹がお茶やコーヒーを飲まないと話しました時びっくりしてしまいました。それで宣教師に知恵の言葉とはなんですかと質問しました。宣教師は酒、タバコ、お茶、コーヒーを飲まず肉少したけを食べて、健康を保つようにすることですと聞いて、大好きなお茶を止めました。 

安息日の戒めを聞いて映画を見に行くのを止めました。年末に什分の一のセッツルメントをしますと聞いて、持っていたお金を全部献金しました。正月に残ったお金はないので本当に困りました。も一つ困ったことは、十一月に日曜学校の第二副会長に召された時、司会をする時最初の三回くらいは何も見えず、声は震え困りました。でも数ヶ月の内には慣れて来ました。 

それから後に日曜学校の会長に召されました。その時にはテキストも資料もなくて、レッスンをするのは大変でした。聖書とモルモン経(アルマ・O・テーラ訳)しかありませんでした。小さな賛美歌集はありましたが、歌の数は非常に少ないでした。 

MIA(相合発達協会)ではダンスや音楽、演劇を勉強しました。特にダンスは冬の寒い時に窓グラスもなくてストーブもない寒い部屋で、皆震えながら体を温めながらしました。

私は支部の第二副支部長に召されました。あとで第一に召されました。その後伝道にでました。最初は広島で九ヶ月、それから高崎に転勤して、十五ヶ月伝道しました。 

1954年に伝道から帰ってきて東京中央支部の会員でしばらくして支部長に召されました。教会は八幡通りで“お化け屋敷”と呼ばれた建物を買いました。そしてそこへ移りました。1960年10月2日に東中央地方部長に召されました。 

1957年に金子美保子と結婚しました。アンドラス伝道会長に司式をしてもらいました。