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掲載六部

 北海道、春の朝の出来事 二〇〇六年十月十日 菊地 良彦

 私の家内、登志子が小脳の腫瘍摘出手術を、一九九五年一月十九日に受けてから、遠距離の旅行が、健康の回復まで無理になったため、同僚として、神殿宣教師の沖村一夫兄弟に同行をお願いした(彼の交通費、食費、ホテル代は、彼が皆、自分で払い、教会の費用は一切使わなかった)。彼を同僚として行くには、次の理由があった。それは日本の聖徒たちが、なぜ彼が長い間教会を休んでいたのに、再び教会に戻って来て、しかも最愛の姉妹、沖村周子姉妹を改宗にまで導いた経緯、その後で沖村姉妹と神殿宣教師として、活躍されるに至った動機と証を、会員の皆さんに聞いて頂くと素晴らしい助けになると思ったからだった。日本には、主人や奥さんが会員でない方々がたくさんいるが、彼の証は皆のために希望を与えるに違いないと思った。

 一九九五年春、北海道の朝の出来事について、ここに記すことにする。次に述べることは、沖村兄弟の許可を受けて書いている。

 北海道のオーディナンス・ワーカー(神殿儀式執行者)の訓練集会(すなわち神殿礼拝の教義と神殿の祝福を教え、新しいワーカーを召すための集会)と、日曜日には、近くの聖餐会で、一般の会員の皆様に、神殿礼拝の重要性と教義と祝福について話すために札幌に行った。

 札幌の北口から歩いて一、二分の近くのホテルに泊まった。前夜は、札幌西ステーク・センターで、札幌市内のワーカーの訓練集会が行われた。その夜は、朝早くから東京神殿で儀式をしたので、ホテルに着くと二人とも疲れて早く休んだ。次の朝、札幌市内の聖餐会に出席することになっていたので、佐藤ステーク会長が迎えに来る前に、早めに二人で朝食を取ることにしていた。レストランで待っていても、なかなか下りて来なかったので私は心配して、彼の部屋に行ってみようと思った。もしかすると、疲れて病気にでもなったのかもしれないと思っていると、間もなく彼が下りて来た。いつもなら、彼の方が早く待っているのに今朝は違っていた。

 心配して、「どこか、体が悪いですか」と聞くと、一夫兄弟が「いいえ。昨晩は一睡もできなかった。だが自分は、どこも体の具合は悪くない。昨晩、部屋に入ってから、寝るまで聖典を読んで、そして祈りをしようと(ひざまず)くと、自分が今まで、この人生で犯してきた過ちが、走馬灯のように思い出され、『自分の罪は、神やイエス・キリストが許して下さるのだろうか。いや、ぜひ神様に許して頂きたい』と思い始め、一晩中、天父にお願いしていたのだ」と言った。

 自分が神の御前で、神の教会の会員として、夫として、父親として、妻や子供たちにできなかったこと、会社経営に当たって、人を殺しはしなかったが、仕事の成功のためなら手段を選ばず、神様の御心にふさわしくない事柄も、たくさんやって来た。今まで自分が歩んで来た一歩一歩が、走馬灯のように思い出され、人生の一齣(ひとこま)一齣(ひとこま)を神に知って頂き、お許しを頂きたいと願ったのです。「どうか、私の願いをお聞き届け、お許し下さい」と一晩中、お祈りしたのです。一つ一つ天父に告げると、涙が滝のように流れ、止まらずに一晩中、泣いていたとのこと。目頭を大きく膨らませ、目を真っ赤にして説明している。説明しながら、また涙を流しながら話しをする彼を見て、この人は何と、主の御前に純真な気持ちで、「贖いの許しと清め」を神にお頼みしている方だろうか。その純朴な心に感動した。

 私は彼に神の子らが、「神の御前に悔い改めの涙を流すことは、神の清めを頂いている確かな証拠である」と言った。「罪を認め、罪を悔い、そして主の御前に、罪の許しを願う心、その清らかな姿こそ、生きとし生ける神の子供たちが持つことのできる、最も美しい姿だ」と彼に告げる。「イエス・キリストの贖いの効力と効果」が必ず、「沖村兄弟の穢れ、汚れ、卑しさ、醜さ、失態、罪、弱点、過ち……などを、主が必ず取り除いてくれる」と申し上げた。

 次の主の言葉を伝えた。

 「……これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。いかに激しいか、あなたは知らない。まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。

 見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした」(「教義と聖約」一九章一五〜一六節)。

 「この約束は真実であって、主がその苦しみを負われたので、許しの涙、贖いの涙、喜びの涙、嬉しさの涙、清めの涙を頂いたのです」と、彼に告げた。

 「しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。

 その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。……」(「教義と聖約」一九章一七〜一八節)

 「イエス・キリストが、沖村兄弟の『苦き杯を飲んでくださった』ので、また沖村兄弟が、罪を告白したことにより、御霊が一晩中、慰めを与えられたのだ」と告げた。彼に「教義と聖約」一九章一九〜二一節をも説明した。もちろん彼は、支部会長や伝道部会長にも、自分の人生の苦き杯の部分を、すでに語ったと言っている。主は同じ一九章の中で、言われている。

「わたしに学び、わたしの言葉を聴きなさい。わたしの御霊の柔和な道を歩みなさい。そうすれば、あなたはわたしによって平安を得るであろう」(「教義と聖約」一九章二三節)。

 「今あなたが主の前に、真摯(しんし)に歩もうとしているので、天父は、一夫兄弟を清められるのです」と告げる。

 アルマの息子が、神の教会、彼の父を迫害し、教会員を殺し、惑わし、教会を破壊しようとした時、天使が現れ彼を叱責し、三日三晩、死んだようになった。その間、彼は御霊によって改宗され、アルマの息子は清められた。それと同じように、天使は現れなかったが、沖村兄弟も主に清めを与えられたのですと告げた。御霊の促しによって、改心され、改宗したのだと伝えた(「モーサヤ書」二七章八〜二七節 参照)。それからアルマの息子は偉大な宣教師となった。

 同じように、キリスト教徒を迫害し、その危害をもっと加えようとして、ダマスカスへ行って、もっと迫害しようとした時、サウロ(パウロ)にイエス・キリストが現れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(「使途行伝」九章四節)。サウロは、アルマと同じようになり、目が見えなくなって、キリストに改宗し、後に偉大な宣教師となった。

 沖村兄弟の真面目な態度、純真な心、それは一晩中、神に嘆願して真摯な気持ちで綺麗になりたい、清められたい、清くなりたいと祈るこの人は、何と素晴らしい方であろうと、私は思い感動した。天父はこのような、沖村兄弟をお喜びになっておられると確信した。沖村兄弟は、アルマのように、教会を滅ぼそうとしたり、教会員を殺したりはしなかった(「アルマ書」三六章一四節 参照)。しかし、今までの人生で御前にふさわしくない行いをしてきたと彼は言っている。その事柄を、天父とイエス・キリストに、許して頂きたいと泣いて、泣いて、泣き尽くしたのだった。

 アルマやパウロとは比較はできないが、自分の苦痛と苦汁を感じ、心の奥底から全部自分を(さら)け出し、洗いざらいにして、許して頂きたいと懇願(こんがん)した。

 こんこんと流れ出る彼の許しの願いの涙は、あたかも「わが息子、一夫よ、我は、汝の罪を許しておるぞよ」との聖なる天父の声が、涙として現れたのだ。年を取られていても、こんなにも純粋な信仰心を、天に向けられることに感激した。留めなく流れる涙は、彼の苦痛と悪い思いを流し出し、償うかのように流れたのだ。イエス・キリストの贖いの血が(へりくだ)る心を癒されたのだ。息子アルマが、苦痛の責めに(さいな)まれている時、自分の父の証を思い出し、「おお、神の御子イエスよ、苦汁の中におり、永遠の死の鎖に縛られているわたしを憐れんでください」(「アルマ書」三六章一八節)。このようにアルマの息子が、苦痛と苦汁を忘れることができたように、沖村兄弟の、真摯な許しの願いは、美しい涙として流れ、二度と罪を起こして苦しむことがなくなった(「アルマ書」三六章一九節 参照)。一晩中流した涙は、罪を忘れ、許され、清められた贖いの涙なのである。

 一点の染みのない状態で、主の御前に立ちたいと願う彼は、この人生は、アミュレクの言葉のように「……神にお会いする用意をする時期……」(「アルマ書」三四章三二節)なので、それは真剣だった。私たちは真の悔い改め、すなわち純真な心、打ち砕かれた心、麦粉の粉のように柔らかく、謙遜な状態になると、「……聖められて、彼らの衣は小羊の血によって……」(「アルマ書」一三章一一節)で洗われ、「……神の御前に清く、染みのない状態……」(「アルマ書」一三章一二節)になる。告白なしに、許しは来ない。主は何度も清くない宮には、主の御霊は宿らないと言われている。私たちが、心から(へりくだ)ると「小羊の血」により白くされる(「アルマ書」三四章三六節 参照)。このように無垢で、純粋に天父とイエス・キリストを求めている信仰者が、日本にいることを知り、ふと自分の目頭から涙が流れ落ちた。

 この日の朝、札幌のホテルでの出来事は、天父の愛を感じた美しい朝の一時であった。主イエス・キリストの神聖な犠牲の目的は、天父の憐れみの心を為し遂げることであり、憐れみこそ正義を超え、憐れみこそ神の子らの希望への橋であり、憐れみこそ神の子らを悔い改めへと導いてくれる。憐れみは正義の要求を満たし、打ち砕かれた心を保護して下さる。

 憐れみこそ、イエス・キリストの贖い計画に神の子らが希望と光を見出す。憐れみは悔い改める人に、天の恵みとして天父が定めた許しの奇跡がもたらされる。主イエス・キリストの聖なる御名により、この恵み、憐れみが頂けるように、朝な夕なに天父を呼び求めようではないか。ベニヤミン王が教えたように、この神聖な神の憐れみを知った後は、「……自分たちを無力な者、値打ちのない者、堕落した状態にある者……」(「モーサヤ書」四章五節)として生活すると神は、次のように私たちを祝福して下さる。

 「あなたがたに言うが、もしあなたがたが、神の慈しみと神のたぐいない力、神の知恵、神の忍耐、人の子らへの神の寛容を知るようになり、また主に頼り、主の戒めを熱心に守って、自分の生涯、すなわち、死すべき体の生涯の最後まで信仰を持ち続ける人に救いが与えられるように、世の初めから贖罪が備えられてきたことをも知るようになったならば、

 わたしは言うが、その人は、アダムの堕落以来この世に住んだ、あるいは現在住んでいる、あるいは世の終わりまでに住む全人類のために、世の初めから備えられた贖罪によって救いを受ける人である。

 これが救いが与えられる方法である。これまで語ってきたこのことのほかにどのような救いもなく、わたしがあなたがたに述べてきた条件のほかに人が救われる条件はない」(「モーサヤ書」四章六〜八節)。

 人は罪のある状態で、命の実と命の水を飲むことはできない。神の栄光の光は、暗黒の雲を取り去り、悔い改めをする心を照らし生かして下さる。

 あの札幌での朝は、特別な贖いの愛と天父の深い深い慈悲を感じることができた忘れられない、人生の一時であった。天父よ、あなたの贖いのご計画の何と美しいことか。