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メリディアン 日本語 |
日本の教会員 佐藤龍居兄弟のアメリカでの著述 1985年 2月17日 |
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佐藤龍猪兄弟の著述−4 日本語聖書に記載してある「愛」の意味に就て 日本語新約聖書(日本聖書協会発行1954年版)の第37頁マタイによる福音書第22章37,38節に「イエス・キリストは言われた『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」と誌してあります。「愛する」ということばには(一)いとしく思う、かわいがる、したう、大切にする、(二)あわれむ、あなさけをかける、ふびんに思う、めぐむ等の意味があります。ところで「人が神を愛する」とはどのような意味でしょう。「人が神をしたう」ことですか。「人が神を大切にする」ことですか。新約聖書ヨハネ第一の手紙第5章3節を見て下さい。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」、言いかえれば、「神を愛するとは、すなわちその戒め通り実行することである」と言ってあります。またヨハネ第二の手紙第6節に「父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、あなたがたが初めから聞いてきた通りに愛のうちを歩くことが、すなわち戒めなのである」と言ってあります。以上の聖句によって「人が神を愛する」という言葉の意味は「人が神の戒め通り実行する」ということであり「神の戒め通り実行する」とは「人が初めから神の言葉として聞いてきた通りに愛の内容を実行する」ということであります。ここで「愛の内容は何か」ということが問題になります。日本語の「愛」という言葉の中には「親が子を思う慈愛」と「異性同志が引かれる愛着」とが同居していますからこの二つを区別しておかないと「愛」の内容がぼやけてしまうおそれがあります。そこでまず教義と聖約第29章34-35節を読んでください。ここには「この故に、われ誠に汝らに告ぐ。われにかかわるすべては霊のことなり。われは何時たりとも、いまだかつて俗世の事にかかわる律法を与えたることなし。...わがいましめは霊にかかわるものなればなり。わがいましめは肉体のものにも俗世のものにもあらず、また肉欲のものにも情欲のものにもあらず」と言ってあります。次に新約聖書コリント人への手紙第13章4-7節を読んで下さい。そこには「愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と言ってあります。この聖句の始めに出ている「愛は」「人間同士の愛すなわち隣人愛」について言っているのであって、その本質は「教義と聖約」に誌してあるように「霊にかかわる愛」であり「聖なる愛」「純真なる愛」であってその「愛」の中に含まれている事実、すなわち内容は寛容(寛大でとがめ立てをしない)情深い(あわれみ深い)ねたまない(うらやみにくむ心がない)等15の項目が挙げてあります。これがすなわち「人間同志の愛すなわち隣人愛」の内容であります。それですから人が万人を聖い愛で愛する時にその人は神を愛していることになるのです。それでは「神の愛」はどのような「愛」でしょうか。人間は肉と霊との結合体であります(高価なる真珠、アブラハムの書第5章7節)。しかしこの地上で生きて人類を絶やさないようにして行くためには肉に関わる欲に従って行かなくてはなりません。人間には食欲、むさぼる欲(貪欲)、性欲の三つの強い欲があり、これらは人間の本性の深い所に根ざしていて、とても抜き難いものであり、これらの次に溺れている人々はついに苦海に沈んで浮かぶことができない、つまり霊の向上が不可能で死滅するほかはないのであります。そこで「神の愛」とは肉欲の結果苦しんでいる人間たちをあわれに思い、苦を抜き楽を与えて下さる神のなさけ、これが「神の愛」であります。すなわち父なる神は創世の前から「救いの計画」を立てて御子イエス・キリストを此世に送り、いけにえとして全人類の身代りにならせ、これによってイエス・キリストを信ずる全人類が「救われる」すなわち「永遠の生命」を得るようにして下さった。ここに父なる神がその霊の子たちを「あわれに思いめぐみを給わる慈悲深い御心」すなわち「神の愛」がはっきり示されています。(ヨハネの第一の手紙第4章9節、ルカによる福音書第6章36節参照)。以上。では又の機会に。Dated:17 Feb 85
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