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メリディアン 日本語 |
日本の教会員 佐藤龍居兄弟のアメリカでの著述 1985年4月14日 |
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佐藤龍猪兄弟の著述−6 課題『日本語聖書にのっている「断食」の意味に就て』 「断食」は(一)強制的の断食、(二)自発的の断食、(三)この中間の断食、例えば宗教上の儀式によって定められている場合、自発的に断食する人々と、止むを得ず断食する人々を含む場合の三種類に分けることができます。第一の「強制的の断食」の例を言うと、人為による現象にせよ自然による現象にせよ飢饉が起った時には好むと好まないとに関わらず断食をするほかに方法はないのであります。現在(1984)エチオピアに起っている状態を見ればよく分かります。アダムとイヴが地球上に降りて来てからその子孫である人間たちは数えきれないほど度々飢饉による断食を経験して来ています。旧約聖書創世記第12章9−10節に「アブラハムはなお進んでネゲブに移った。さて、その地にききんがあったのでアブラハムはエジプトに寄留しようとそこに下った。ききんがその地に激しかったからである」と誌してあります。次に第二の「自発的断食」は旧約聖書出エジプト記第34章28節に「モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたがパンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十戒を板の上に書いた。」新約聖書マタイによる福音書第4章1−2節に「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔が試みられるためである。そして四十日四十夜、断食をし、そして空腹になられた」と誌してあります。また自発的に断食をする時にも「神に何事かを嘆願するために」断食をすることがあります。旧約聖書サムエル記下第12章15−16節に「さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食してへやに入り終夜地に伏した」と誌してあります。また自分たちの先祖を含む縁のある人々を追悼(ついとう)して憂いに沈み断食する(日本語聖書には、泣き悲しみかつ断食する、としてあります)ことがあります。旧約聖書ゼカリヤ書第7章3−6節参照。然し、平和と豊産の時が来ると真の意味が忘れられて形式的になり、自分が憂いに沈んでいることを「人に見せるために」わざと「陰気な顔つきをする者」が出てくるのであります。(新約聖書マタイによる福音書第6章16節参照)。次に「断食して祈る」ことに就て聖書には数多くの例が誌してあります。新約聖書使徒行伝13章2−3節には「一同が主に礼拝を捧げ断食をしていると聖霊が「さあバルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当たらせなさい」と告げた。そこで一同は断食と祈りとをして、手を2人の上においた後、出発させた」。モルモン経モーサヤ書第27章22−23節には、「そして祭司たちも集まらせたが祭司らはその主なる神に断食して祈り始め、息子アルマが物が言えるようにその口を開いて下さるよう、またその手足を強くして下さることと、民の目を開いて神の恩恵(めぐみ)と栄光とを認めさせて下さることとを乞い願った。このようにして祭司たちが二日二晩断食して祈ったところ、息子のアルマは手足に力を得て立ち上り、かれらに物を言いはじめ、心配しないで喜んでくれと言った」と誌してあります。またアルマ書第5章45−46節に「どのようにしてそれが確であることを知っているかと問うならば、これは神の聖い「みたま」が私に示したもう
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