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メリディアン 日本語 |
日本の教会員 高木冨五郎について 柳田聡子姉妹 |
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高木冨五郎は北海道利尻島の沓形村で生れた。高木の両親はなかなか子供が生まれなかったので、親しくしていた隣家の高橋家の3男が生まれる時にその子が生れる前から高木家の長男として高木家に入籍するように約束していたということである。明治27年(1894年)3月27日に確かに戸籍に嫡男として登録されている。成長する内に、高橋家の仁吉(にきち)から、実は冨五郎は仁吉の弟であると知らされて、特に親しい友達のようになっていた。 高橋家も高木家も利尻では、漁師をしていた。高橋家の父は海で荒波にあい、 仁吉が10歳くらいの時、亡くなってしまった。そのあと、母親(花)は漁師は出来ないので、札幌に転居した。その札幌で、仁吉は末日聖徒イエス・キリスト教会に行くようになった。彼は1908年(明治41年)9月5日に16歳のとき札幌でモロナイ・S・マリオット長老からバプテスマを受けた。 幼いときから仲良しだった弟(冨五郎)は高木の長男として、高等小学校を卒業して、13歳の時小樽の大きな菓子製造卸問屋に見習い小僧として送られてそこで働くことになった。しかし、彼はもっと学校で勉強したい気持が強くて、東京に行く決心をし、その職場を離れ、主人が止めるのもきかず、東京から来た商人と共に東京に行ってしまった。 その後、実兄の仁吉から「東京にも教会があるから、行きなさい」という手紙を冨五郎は受け取ったが、神田に下宿していた彼は、牛込まで行く電車賃が出せないと思って、行かなかった。それでも3回も仁吉から教会に行くようにと手紙が来たので、歩いて行こうと決心した。55分くらいかかったそうである。そこは伝道本部で、集会もそこで行われていた。 最初玄関に冨五郎が着いたとき、一人の外人が出てきて「よくいらっしゃいました」と迎えてくれたが、その丁寧で、上手な日本語で迎えてもらい、彼はびっくりして、ケイン長老を尊敬し、毎週神田から歩いて教会に通い続けたそうである。その後、急性右膝関節炎になり、築地の林外科病院で明治44年5月5日大手術をうけて、一生涯右膝は曲がらなくなってしまった。その後肋骨カリエスの手術もして、教会にも行けず、樺太(サハリン)に移っていた高木の両親のところで静養したり、その後樺太(カラフトと読んでいた)でしばらく小学校の教師もしていた。その時は東京で、大学受験資格を取る試験を合格していたので、進められて教師をし、体育はできないので、音楽を教える為にオルガンも習ったのである。そのような事情もあって、東京を離れていたが、向学の念は絶えず、やがて又東京に上京した。そして、念願の早稲田大学の入学試験を受けて合格した。彼は今度こそ、正式に学生生活をしたいと思い、高木家の昔の丸岡藩主に面会に行き、有馬子爵の殿様に会いに行き、高木普請奉行の息子であることを話し、早稲田に昼間通学するが、他の時間は殿様の仕事を何でも手伝う玄関番の書生として、そのお屋敷に住まわせて欲しいと話したそうである。殿様はこの青年の態度が気に入って、書生として使うことに賛成した。父はこれで、住むところと、食事を取ることが出来ることになった。 早稲田では政治経済科に入った。当時は早稲田大学総長は、創立者である大隈重信(おおくま、しげのぶ)氏が健在で彼の演説は立派だったと父は言っていた。高木は早稲田を卒業して間もなく読売新聞記者となったが、その前、まだ書生であった最後の夏休みにHグラント・アイビンス伝道部長の要請で、讃美歌の翻訳をした。それは伝道部長の部屋に毎日かよって、伝道部長が歌って聞かせる讃美歌をそのまま日本語が載せられるように翻訳した。それまでは日本語の讃美歌は出来ていなかった。 ヒーバー・J・グラント伝道部長のときから、讃美歌は必要であったが、会員もいなかったし、会員でない詩人と言う人に頼んで翻訳してもらったが、日本語は音節が多くて、楽譜に載せられない。エンサイン長老はタバナクル合唱団の副隊長だったので、その長い訳詩に曲をつくり、66曲の讃美歌集を全部作曲したが、この作曲ではほかの宣教師にも歌えなかった。折角作ったが、実際には余り歌われなかったようである。伝道100年記念のイベントの時、山手ワードでステーク聖歌隊が「We Thank Thee, O God For a Prophet」を4部合唱に編曲してエンサイン長老の曲を歌いました。でも出席した人たちはそれがあの讃美歌だとは気がつかなかったでしょう。曲のメロディーも言葉も違うのですから。言葉の意味は同じでも。 アイビンス伝道部長は何とかアメリカで歌われる讃美歌の曲で、日本語の讃美歌集が欲しいと考えて、1014年の夏、高木にその責任を与えて、毎日伝道本部に通って150曲を夏休みの間に翻訳した。1915年に伝道部長はステンプソン伝道部長と交代する年であった。 ステンプソン長老は更にもっと追加したいと思って、ロイド・O・アイビー長老と共に70曲を選んだ。その讃美歌の言葉をアイビー長老が意訳して、 山根藤七氏が楽譜に合わせた。それで、その讃美歌集は合計220曲が載せられていた。高木冨五郎は1915年にアイビンス伝道部長が帰国する前に多摩川でバプテスマを受けて、ステンプソン長老の確認の按手を受けた。それは1915年6月1日であった。 この日本語の讃美歌集は伝道が閉鎖されたに時にはハワイにみな送られていた。しかし1948年に伝道が再開されてから、またハワイから送り返されて1960年にポール・C・アンドラス伝道部長のときに柳田聡子によって新しく讃美歌が翻訳されるまで、それを使用していた。今回の新しい讃美歌集には299曲が入っている。この時は編集を高木冨五郎が受け持った。 高木光(みつ)は高木家の仏教を守って欲しいと高木冨五郎の両親に言われてお寺に同行していたが、その両親は亡くなって、晩年には名古屋で私たちと一緒に生活するよううになってから、とうとう末日聖徒になってしまった。それで日本人が1965年初めてハワイ神殿に行く計画が出来たときは高木光は活発会員になってから5年になるので、高木夫婦と柳田夫婦は共にハワイに行くことが出来た。神様の祝福はこのような形で、私達親子に表れたのです。 父は79歳で、母はその5年後80歳で霊界に召されました。タネを与えてくれた伯父、仁吉(にきち)は初めの伝道が閉鎖される前の年に31歳でなくなりました。その娘は80歳くらいの時山形県の酒田で、宣教師の話を聞きましたが、「聡ちゃんみたいな生活は出来ない」と断ってしまいました。私より年上ですから、もう霊界に行ってますから、今頃は後悔していると思って、私は神殿の儀式をしておきました。その人の娘を私は知っています。彼女は家に来たことがありますが、埼玉県の川口にいます。浦和の英会話に行ったことがあると言っていました。非会員と結婚していますから、ちょっと難しいです。 余分なことを沢山書いたと思いますが、適当に拾ってください。なにに、焦点を当てていいか分からず色々書きました。要らないところは捨ててください。ゆっくりでよいと言われましたが、後まで置いておくと頼まれたことも忘れるような気がして、今日は強い台風が関東に来ると言うニュースで、沖縄や九州や四国で、被害が多く、死んだり、怪我したことが報じられましたので、 ステーク会長が今日は家に居なさいと連絡がありました。この安息日に丁度時間が出来ましたので、書いて見ました。 2007年7月15日(日) |