ーディアン

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トンガよりのストーリ

ジョン・H・グローバーグ

 

 

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いつでも、どこでも

28光を見る 

 香港に住んでいたころ,妻のジーンとわたしは,何度もインドを訪問した。インドでは,教会の集会を開き,多くの事柄について政府高官と話し合った。喜ばしいことに,インドのすばらしい人々と交わるうちに,この国の人々に主の影響が及んでいると感じることができた。そのような訪問を重ねるうちに,あるとき,決して忘れられない経験をした。その希少な体験をしたおかげで,わたしの目のうろこが落ち,人生が変わった。 

 その時,わたしは一人でインドへ訪問していた。ジーンは,当時香港の高校に通学していた末娘のエミリーとともに家に留まることにした。1週間あまりの滞在で,伝道部会長や宣教師,インド各地から集まった数百人の会員たちと集会を持つことができた。 

 インドは広く,滞在期間中,朝早くから夜遅くまで,スケジュールがぎっしり詰まっていた。とても大変だったが,有意義だった。会員と宣教師の愛を感じることができた。いつも笑顔で接してくれる彼らには強い証があり,主と御業に対する深い愛を抱いているのが分かった。確かにスケジュールはきつかった。毎晩違うベッド,窮屈な空の旅,慣れない食事,大勢の人々,目にするもの,耳にするもの,におい,すべてが慣れないものばかり。でも,わたしは強められ,高められていると感じた。というのも,インドの謙遜な人々が霊的に進歩しているのを目にし,感じることができたからだ。 

 最後の集会が終わった後,伝道部会長がニューデリー空港まで送ってくれた。深夜を少し回ったころ,香港行きの飛行機に搭乗できた。香港までは6時間かかる。搭乗してほっと一息ついたのもつかの間,離陸後に突然苦しくなった。おそらく食あたりだろう。内臓がとびだすのではないかと思うほど激しく嘔吐した。幸いなことに,周りにはほんの数人しか乗客がいなかったので,何度も洗面所を往復できた。 

 すぐに治まるよう願ったが,悪くなる一方だった。このまま死ぬのではないかと思うほどだった。苦しみから少しでも解放してくださいと,心から神に祈った。でも,苦しさは増す一方で,どうすることもできなかった。洗面所から戻って来る途中,気が遠くなり,その場に倒れ込みたいほどだった。しかし,自力で座席に戻るしかなかった。何とか座席にたどり着き,腰を降ろした。脂汗をかき,呼吸を整えながら,こう自分に言い聞かせた。「不平を言うな。インドで会ったすばらしい会員や宣教師のことを神に感謝しなさい。」頭を下げ,心からの感謝を述べた。すると,小さな平安の光を感じた。永遠に続くかのように思えた苦しみが少しだけ和らぎけいれんが若干納まり,吐き気がほんの少し納まった。さらに深い感謝を感じながら,引き続き,主の愛と憐れみに感謝を述べ続けた。疲れているのだから,少し休んでからにしようかとも思ったが,思考がずっと働き続け,祈りを止めることができなかった。すると,どこからともなく,まるで全身を包み込むような優しい声が「見なさい」と告げたような気がした。 

 窓の外を見ると,雲一つない空に,数え切れない星が見えた。まるで,この大きな空間を治めている神の荘厳な力を見,感じたような気がした。神の偉大さ,力,秩序,愛,憐れみ,無数の創造物に驚嘆した。そのような真理について考えていると,もう一度優しい声が聞こえた。 

「見なさい。」今度は星空を見るのでなく,眼下に広がる大地を見るように促された。

  見下ろすと,暗闇しか見えなかった。もう一度見上げた。すると再び,まばゆいばかりの星たちがどこまでも続いているのが見えた。もう一度,優しい声が促した。「見なさい。」やはり今度も,下を見るべきだと感じた。目を凝らして見てみる。きっと何かが見えるのに違いない。けれどもやはり,暗闇しか見えない。飛行機はヒマラヤ山脈の上空を飛んでいた。高い高度を保って飛行し,中国大陸を越えて香港に向かう。目を凝らして,何か見えるはずだと自分に言い聞かせながら,何度も見た。突然,小さなぼんやりとした光が見えた。その方向をじっと見つめた。「ああ,少しずつ明るくなっていく。」もう一つ別の光が目に入った。前よりもっと小さな光だ。でも,こっちの方がはっきりしていて,じっと輝き続けている。 

 胸を躍らせながらさらに目を凝らした。すると,一つ,また一つと,光が見えてきた。見れば見るほど,光の数が増えてきた。やがて,たくさんの光を確認できるようになった。一つだけぽつんと輝く光もあれば,多くの光が密集している場所もあった。あれは全部,中国の集落から出ている光だろうか? わたしはまた,インドで出会ったすばらしい会員や宣教師たち,そして彼らの顔が輝いていたことを思い出した。でも今はインドではなく,中国の上空を飛んでいる。現在中国にはほんのわずかの貴重な会員たちがいる。そのようなことを考えていると,あの優しい声が説明してくれた。中国には多くのすばらしい人々がいるのだと。実際,世界各地にすばらしい人々がいる。アジアの国々,海に浮かぶ多くの島々,アメリカ大陸,その他の地域,もしずっと見つめたら,一生懸命見つめたら,信仰を持って見つめたら,そこに住む人々の光が見えるだろう。 

 もっと見て,もっと知りたいと思った。するとあの声が告げた。もしそうしたいのならば,たとえ体調が悪くても,一生懸命見続けるなら,その願いはかなうだろうと。そのときわたしは深く理解した。光,命,自由,愛は全部神から出ている,そして,わたし達一人一人の中にあるキリストの光(教義と聖約932参照)は,御霊の促しに従うならば,わたしたちを主のもとへ導いてくれるのだ。このキリストの光は良心と呼ばれたり,別の名で呼ばれたりするが,結局は同じである。それは,時代や文化を問わず,すべての人に,これまでも,そして,これからも,与えられるのだ(教義と聖約88713参照)。 

すべての人が道徳的な選択の自由,すなわち選択する権利という賜物を持っている。自分の選択の自由を正しく使って光を選び,より優しく,善良になり,さらに多くの光を受ける人がいる。その一方で,自己の欲望を追求し,光を遠ざける人もいる。たいていの人はその両方を多少なりとも行う。しかし,たとえ深い闇に落ち込んだとしても,人はいつも方向を転じて,光に向かうことができる。神の律法に添った生活が送れるように努力するなら(その努力のプロセスを悔い改めと呼ぶ),人は光に向かって進むことができる。そして徐々に明るさを増し,理解を深めていくことができるのだ。 

 世界中のいたるところに善良な人々が無数に暮らしている。人々の善良さ(光)に目を向ければ向けるほど,その光が見えるようになる。すべての人のうちにある光は(たとえどんなに薄暗い光であっても),すべての光の源であるキリストの証に反応する。だから,わたしたちには,言葉と行いを通して,熱心に主についての証を述べるという大きな責任があるのだ。確かに,主はこう約束されている。「あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5161415節も参照) 

 光について考えていると,ヤレドの兄弟の祈りについて思い出した。「おお主よ,〔わたしたちが〕この暗闇の中でこの荒れ狂う深みを越えて行くことのないようにしてください。……これらの石にあなたの指で触れて,これらの石が暗闇の中で光を放つものとなるようにしてください。そうすれば……海を渡る間,光を得ることができるでしょう。」(エテル334 

 憐れみにあふれた主は,それらの石に触れ,石は光を放った。同じように,わたしたちさえその気になれば,主はわたしたちの生活の中で光を増してくださるのだ。暗闇の中で人生の旅を進む必要はないのだ。 

 キリストによってついに完全な者とされるために十分な信仰を持って,真心からキリストを信じる唯一の方法は,自分の内にあるキリスト光に従うことだ。イエスは御父の御心を行うために来られた。その御心の中には,すべての人を自分のもとへ引き寄せるということも含まれていた(3ニーファイ271315;ヨハネ1249参照)。 

 救い主の次の言葉が分かり始めた。「義にかなうものは上から,光の父から降って来る。」(教義と聖約679 

 その真理について考えながら,ゲツセマネでの暗黒の夜のことを思った。救い主が苦しみを受けられたとき,星を見上げられた,御自分がかつておられた,ふるさとの星をご覧になったのだ,とわたしは感じた。それから主はその闇の中で,御自分の周りを見渡して,闇の中に輝いている無数の光に目を留められた。その夜,非常に激しい苦痛に耐えながら,主は全宇宙の一つ一つの光,すなわち一人一人の人を知り,愛してくださった。 

 わたしは主の後について園を出て,嘲笑の中で主が裁きを受けられている場所へ行き,主が鞭打たれるのを見て,悲痛な叫び声を挙げた。主が助けてこられた    人々が「十字架に付けよ。十字架に付けよ」と叫んでいるのを聞いて,わたしはうなだれた。わたしは主がむごたらしい十字架にかけられ,再び苦しまれるのを見た。あとどれくらい主は苦しまれなければならないのだろう? 

 十字架の上で苦しまれる主をわたしは見た。主は耐え難い痛みを受けながらも,母親の姿を探し,ヨハネから世話を受けるようにと言われた。わたしは主が,嘲笑する群集の向こうを見ておられるのを感じた。井戸のそばの女性たち,数百人の空腹な群集に食事を与える場面,盲目の人々が見えるようになった場面,死んだ子供がよみがえった場面,らい病から清められた者が飛び上がって喜んでいる場面,体を動かせなかった人,手足を動かせなかった人,悪霊にとりつかれていた人,罪に縛られていた人,途方にくれていた人が,癒され,自由を得,救われた場面を見ておられるのを感じた。主は,あらゆる時代の,あらゆる場所の,あらゆる年齢の,一人一人の光を知り,一人一人を計り知れないほど愛しておられた。その愛で,主の心は張り裂けんばかりに膨らんでいた。そして,主は,すべての光を暗闇から引き上げるのに足りるだけの負債を払い終えたことを知ると,天を見上げられた。 

 突然,耳をつんざくような音が聞こえた。目もくらむような光を放ちながら,巨大な雷がすべての被造物を覆っていた闇を引き裂いた。そして,救い主の言葉が永遠を貫いた。「すべてが終わった,父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます。」(欽定訳ルカ2346)主は成し遂げられた! 正義を満たすため,救いを可能にするために必要とされた血と,涙と,苦痛は,死すべき人間には理解できない。しかし,主がそれを成し遂げられたことをわたしは知っている! わたしにできたことは,涙を流し,驚き,誉め称えることだけだった。この非常に苦しく,しかも威厳のある場面の証人となるにはわたしは弱すぎて,ただ黙って涙を流すこと以外,何もできなかった。 

涙でぼやけていたが,わたしは大きな岩が震え,うめき声を上げながら,ゆっくり動いているのを見たような気がした。突然,まぶしい光が周りのすべての物,人,場所を囲んだように思えた。暗闇が光に,死が命に,絶望が希望に,悲しみが喜びに変わった。すべてが微笑んでいるかのように見えた。救い主の愛が勝利した。今や,神に従うことを選び続けるならば,一つ一つの光はどんどん輝きを増し,やがて天上の日の栄えの光になることができるのだ。 

「神から出ているものは光である。光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして,その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」(教義と聖約5024 

わたしは長い時間をかけて感謝の気持ちを表現した。しかし,それだけでは十分ではないと感じた。すべての被造物がどのようにして永遠に「ホサナ」と叫び続けることができるのか少し分かったような気がした。「そして,昼も夜も,絶え間なくこう叫びつづけていた。『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者にして主なる神。昔いまし,今いまし,やがてきたるべき者。』」(黙示48 

空が少しずつ明るくなり始め,星の光が弱くなってきた。わたしの友である星たち,そして眼下の無限の可能性を秘めた光たちを見失いたくないと思った。わたしは主に,もう少しだけ長くこの情景を見させてくださいと祈った。しかし,星の光は次第に消えてゆき,飛行機は着陸した。もう一度,あの優しいささやきが聞こえた。「あなたの周りを見なさい。 

見なさい。見つけなさい。愛しなさい。啓発しなさい。証しなさい。犠牲を払いなさい。人々がキリストのみもとに来るのを助けるためにすべてのことをしなさい。そうすれば,すべてはよしと言えるのです。」 

わたしは,そのときの自分に理解できる以上のことを見,聞き,感じていると思った。と同時に,これから長い時間をかけて,必要に応じて少しずつそれらのことが理解できるようになると確信した。なぜなら,それらすべてがわたしの心に深く刻み込まれたからだ。それはすばらしい気持ちだった。 

着陸してから思い返すと,今回の空の旅の前半は惨めだったが,後半はとても栄光に満ちたものになっていたことに気づいた。今経験した事柄の順序を考えてみて驚いた。義務を果たす。(病気やそのほかの理由で)謙遜にさせられ,感謝する。進んで耳を傾け,目を向ける。(肉体の視力を超越して)見る。感じる。従う。助ける。 

飛行機が停止したとき,わたしの肉体は弱り果てていたが,霊は強くなったように感じた。飛行機から降りると,周囲の物質世界が存在していないかのように思えた。入国管理や税関を通過して,迎えの車に乗るまでの間,ふわふわと宙に浮いているように感じた。まるですべての人に微笑みかけ,語りかけているような気がした。周囲の人々が微笑みもせず,無言で急いでいる様子,特に永遠にかかわる重要な事柄について何も話さずに通り過ぎていく様子に驚いた。それは奇妙なことのように思えた。 

そして,思い出した。わたしたちがここに来たのは試しを受けるため,学ぶため,従うため,そのようにして,わたしたちのうちにある光をもっともっと明るく輝かせるためだったということを。わたしたち全員は,もちろんわたしも含めて,どこにいようと,だれと一緒にいようと,さらに善い人物にならなくてはならない。そのようにすれば,どこかでだれかがそれに応えてくれる。そして,わたしたちはその人たちともに成長し,もっともっと成長して,やがて神の完全な力を受け,永遠に輝き続けられるようになるのだ。

翻訳:神田央